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フランス代表が歩んだ協調と内紛の歴史 “移民の子たち”が見据える二度目のW杯制覇
1998年の栄光と2010年の恥辱、両極端な姿を見せてきた“レ・ブルー”
フランスのフットボールプレーヤーの生まれ育った環境は、だいたい一緒だった。今でもそんなに変わらないと思う。
フランスの総人口に対する移民の割合は10%強にすぎないが、サッカー界ではこの割合は逆転しているようにすら見える。移民の子どもたちが生まれ育ったのは都市郊外の町だ。都会の真ん中は家賃が高すぎて住めないが、田舎では仕事がないからだ。
ティエリ・アンリが育ったレズリュスという街はパリ郊外にある。一見閑静な住宅街だが、意外に危険な場所だと言われた。団地の並び立つ隙間にあったスポーツ公園には、「アンリの壁」として有名なコンクリートの壁が無造作に立っていた。両面使えるように広場の真ん中に立てられていて、アンリはそこでファーサイドへ巻いていく、あの独特の軌道を描くシュートを練習していたという。
アンリはパリのクレールフォンテーヌ国立研究所に入った。そこからASモナコ、ユベントス、アーセナルと移籍してスーパースターになっている。クレールフォンテーヌへ行く前は、カルフールの駐車場で兄弟や親戚たちと買い物カートをゴールに見立ててボールを蹴った。バカンスに出かけない家庭の子どもたちの長い夏休みの過ごし方だ。そうするしかないからだが、それが彼らの基礎になった。
都市郊外は“ゲットー化”する。移民が集中し、やがて移民たちばかりの町になっていく。フランス代表もいつしか移民の子で占められるようになった。