「らしくいられるために」 玉田圭司がC大阪移籍を決断した理由
自然体の先で
もしかしたら、今回の名古屋退団の報を耳にして、こう想像した人たちもいたかもしれない。『玉田も体が限界か』『もう満足なプ レーができないのか』と。本人も、そうした声がささやかれていることを知っていた。だからこそ、強くそのイメージを否定したいという。
「みんな衰えたとか言うけど、本当にそんな感覚がなくて。でも、経験を重ねるごとに、やっぱりプレースタイルが変わっていった。レイソル時代や、ジーコジャパンのころは縦に仕掛けて、スピードで突破するのが自分の代名詞だった。でも今は、攻撃のタメを作って、キープ力を生かして、そこからゴール前に出て行く。それは名古屋でミスター(ドラガン・ストイコビッチ前監督)の元でプレーして余計にそうなっていったと思う」
そうした、年月相応の変化を経た上で、玉田は今の自分自身にこんな確信を持っている。
「プレーの幅が広がって、昔 より賢い選手になったと感じる。たとえスピードがなくなっても、技術を生かしたプレーは続けられる。海外を見ても、速さが衰えたギグスが最後は中盤で長生きして、トッティなんかは今でも技術を生かしてプレーできている。根拠はないよ。でもトッティができるんだから、俺だってやれるでしょと考えちゃう。テクニックに体力や年齢は関係ない。テクニックこそが、俺の最高の武器だから」
13年、14年と、名古屋は主力の多くを放出することとなった。逼迫するクラブ財政と若手への転換という大義はあったが、08年からのストイコビッチ体制以降、“強い名古屋”を形成してきた選手が次々と去っていく現実に寂しさも感じる。
このオフには、名古屋一筋でプレーしてきた中村直志が引退した 。昨年11月下旬に行われたシーズンのホーム最終戦。試合後、ファンの前に中村、そして退団する玉田とジョシュア・ケネディが並んだ。そこで、玉田は思いがけない情景に遭遇した。
「豊田での最終戦。あれは本当にうれしかった。直志君は引退ということもあったから、盛大に声援が送られると思っていた。でも、サポーターは俺も同じ扱いをしてくれたんだよね。試合前からずっと俺のチャント(応援歌)を歌い続けてくれた。おかげでグッと来て、ろくなウオーミングアップができなかった(笑)。試合後に観客を前に話した時も感じた。『俺って、こんなに愛されていたんだ』って。うわべではなくて、サポーターには本当に感謝している」
もともと浪花節を語るようなタイプではない。過去 にはサポーターと衝突した経験もあれば、監督に不満をぶつけては意地を張ることだってあった。そんな全ての過去を引っくるめて、玉田は素直にこう語る。「ブログにも書いたけど、いつしか『このまま名古屋で引退するのかな』という気持ちになっていたのはうそじゃなかった。“名古屋の玉田”で終わると。でも、それは最後まで自分らしくいられるということが前提にあった。自分らしいプレーを貫けるか。俺はサッカーも、私生活でも、自然体でいたいし、それを求めてきた。今まで名古屋では何年も自然体でいることができていた。でも、そうではない時が来てしまった。悔しい気持ちがあふれて、『このままで選手としての人生が終わってはいけない』という思いに変わっていった」
いつだっ て名古屋の中心だった。フローデ・ヨンセン、ダヴィ、ケネディら多彩な助っ人陣と前線でコンビを組んで攻撃をけん引。巧みなテクニックを生かしたボールキープでチームのリズムに変化を生み、何度もスーパーゴールを決めてきた。
10年のリーグ制覇を手繰り寄せた湘南戦の決勝点は背番号「11」が決めた。翌年、柏に勝ち点1差で王者になり損ねたが、最終節の新潟戦で連覇に近づくFK弾を沈めたのも、このレフティだった。