「らしくいられるために」 玉田圭司がC大阪移籍を決断した理由

変化と不変

 寒風荒ぶ冬の名古屋の街を、玉田圭司と歩いていた。
 「ああ、ここのカフェね。来たことあるよ、入ろうか」
 この地にやって来て、もうすぐ9年が経とうとしていた。古巣の柏よりも長く過ごした土地を、彼は今回去ることになった。見慣れた街並み。行く先々で目にする場所を、名残惜しそうに見つめる。
「愛着って、9年もいれば、湧いてくるものだよ。チームにも、名古屋という土地にもそう。人生においても、ここに来て俺は結婚もしたから。選手同士も良い関係で、何よりこのクラブは家族同士も本当に仲が良かった。雰囲気は最高だった。だから好きだったね、グランパスが」< br>
 名古屋に来る以前のとがっていた玉田は、そこにはいない。この地で、日本代表としてワールドカップ(W杯)に二度(2006年、10年)出場し、J1リーグ優勝(10年)も果たした。そして夫となり、父にもなった。あらゆる経験は、一人の若者を大人の男に変えていった。カフェに入り、温かい紅茶を口にし、笑顔で会話を重ねる。表立って伝わる物腰の柔らかさが今の彼にはある。最近、周囲からこんなことをよく言われるという。「丸くなったねって(笑)。でも、それは自分も感じるよ」。
 ただし、サッカーの話となれば、途端に表情を変える。FWとして持ち続けてきた自尊心の強さは、今も変わらない。昨年末、名古屋から実質戦力外を突き付けられた。悔しさが募らないはずがない。
「ク ラブから退団を告げられる予想は、実はしていた。シーズン中、西野(朗)監督に呼ばれたことがあった。『おまえはこのチームではスペシャルな存在だ。ただ、ここではおまえのその能力を生かすようなサッカーをすることはできない。タマに合わせたサッカーをすれば、多くの選手を外さないといけない』。そう言われた。つまり、テクニックを生かしてボールをつないで攻めるサッカーではなく、監督はカウンターサッカーに移行したいと。その上で、俺を外すということだった。そのカウンタースタイルに、合わせてほしいとも言われなかった。だからこのタイミングで、俺も決断をしないといけなかった」
 さらに心情を吐露していくと、普段はポーカーフェースな玉田の表情が次第に曇り始める。
「ショックだったね。実際、『このチームに俺の未来はもうないんだな』と思った。来季残っても、これ以上にプライドを傷つけられることがあるかもしれない。自分をスペシャルだと言ってもらえるのはありがたい。けれど、選手としては今プレーできるか、できないかが一番大事なことだから。そこをないがしろにするわけにはいかない」
 ここ数年の玉田は、負傷に悩まされ続けてきた。13年には腰を痛め、慢性的な足首の痛みとも常に付き合ってきた。ところが、14年は夏場から体調は全快。監督からのあの言葉を告げられて以降、皮肉にも玉田の動きはキレを増していったのだった。
「もう体は全く問題ない。だから、みんなに言いたい。練習を見てほしい、俺のプレーを見てと。紅白戦だ って、ほとんど俺たち控え組が勝っている。普段試合に出ている主力組と、控え組ではサッカーが全然違って。俺達はとにかく丁寧にパスをつないで攻撃していこうと。今の名古屋には若手にうまい選手が多い。だから俺も伝えたいことがあった。『練習から単純にボールを蹴って、走ってみたいなサッカーだけ繰り返しても、絶対にうまくはならない』と。練習なんだからミスしてもいい。試合になれば展開によって現実的なサッカーは必要だけど、普段からそんなことばかりやっても絶対に技術は上達しない。若手もそういう考えについてきてくれた」

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