次代の五輪選手を育てるには “ドリームチーム”を経験した男が考える育成論
“日本一”きつい練習に耐えて日の丸を背負うまでになった三浦さん
左サイドを主戦場としていた三浦さんは最年長選手として日本サッカー史上最も有望と呼ばれた若手の中に加わった。当時のフランス人監督から独特な無回転フリーキックなど正確なキックに加え、リーダーシップを要求された。
「あの時の五輪代表はものすごく強かった。僕は一番年上だったけれど、本当にみんなが要求し合って、いい選手がたくさんいた。準々決勝のアメリカ戦も勝てたと思う。そういう流れだったし、いい成績をもっと残せた。オリンピックというサッカー選手としては一生に1度の大会。そこに立てたということは当時選んでくれたトルシエ監督に感謝している。結果には満足はいっていない。でも、みんなと一緒に戦えたことは良かった」
人生最高の晴れ舞台となったシドニーの記憶だが、五輪の舞台を踏みしめることができたのは、高校サッカー部時代に厳しい練習の中で切磋琢磨した日々も大きく影響しているという。長崎県の名門国見高校出身の三浦さんは在学中に全国高校サッカー選手権大会で優勝2回、4強1回という栄光を手にしている。
「練習は今でも日本一きつい学校だと思っています。きつい練習を、部員みんなで協調性を持ち、そして、日本一という目標を持って乗り越えることができた。その中で仲間意識も芽生えた。みんなで優勝を勝ち取るという気持ちで3年間過ごしたことが、17年間現役としてプレーできた理由かもしれません。高校の3年間をそういう環境の中でサッカーできたことがキャリアにとって大きかった」
高校に近い、たぬき山の往復10キロの急坂を毎日走破。三浦さんの在籍時代には水分補給という概念がなかったために、ほとんど水も飲めないまま厳しい練習にひたすら打ち込んだ。
「坂道ダッシュは厳しい。脱落は許されません。当時僕らの時代は水分補給もできない環境だった。非常に苦しい状況だったけれど、その中でも半分要領よくやらないと潰れてしまうかもしれなかった。そういう考える力は自然と身についてくる。