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友・田部和良に捧ぐ 人生という名の試合に最後に勝利したことを祈って
突然襲ってきた病魔
次の所属先となったアビスパ福岡では、立ち上げ間もない横浜FCで監督を務めたピエール・リトバルスキーと再び仕事をすることになった。そして、フランス時代のネットワークを活かしてボルドーFCとのパートナーシップ契約締結に貢献した。
その次のFC琉球では、元日本代表のフィリップ・トルシエ総監督や自ら招へいした松田岳夫監督をサポートしてチーム強化に力を注ぐ一方、その温暖な地をスポーツの花で埋め尽くして盛り上げようと、Jクラブや日本の大学チームだけではなく中国、韓国のプロチームのキャンプ誘致に尽力した。
「しょうがない」とFC琉球を辞め、結果的に田部が最後に選ぶことになったのはベトナムだ。Jリーグのアジア戦略の一環として、アジアの各国リーグにJリーグの運営ノウハウを普及させるプロジェクトに、彼の国際性とたくましさが評価された。
赴任後に身内の不幸で帰国した際、われわれも年齢の影響か、かなり長く病気や健康、治療法などについて話をした。その後ベトナムに戻ったとばかり思っていたが突然、携帯電話にメールが届いた。
「言わないでほしいが、ずっと入院中。悪性リンパ腫だから。これから1回目の抗がん剤。どうなるか分からん」
そのメールから10日が経ち何の音沙汰もないので、勇気を出して体調を聞くメール送った。
「最悪。一晩中下痢だし、今日はぐったり。昨日トルシエが来た。『これは試合前と一緒だ。絶対に勝つことを信じろ』と。うれしい。バルセロナのビラノバやアビダル、フランスのブルーノ・メツも闘っているらしい」
余命宣告を何度もされたながらも都度、乗り越えて昨年12月には退院するまで回復した。今年2月と3月にはかつて彼がキャンプ誘致を働き掛け、今では多くのJリーグのクラブがキャンプを張る青く美しい海に囲まれた温暖な地、そして、そこで奥さんの故郷でもある沖縄に戻るまでに調子を取り戻していた。