66歳の名将「これしかできん」 監督31年目で「やっぱり楽しい」…無名→代表入りした教え子たち【インタビュー】

66歳・石﨑信弘監督の脳裏に刻まれたこれまでの教え子たち
日本サッカー界では数々の名将が生まれてきた。J3ヴァンラーレ八戸を指揮する66歳の石﨑信弘監督はその1人に数えられる。昨年、Jリーグ史上初通算800試合指揮の金字塔を打ち立てた石﨑氏の監督キャリア年数は30年以上。1995年にNEC山形(現モンテディオ山形)で指導者として歩み始めたなか、これまで多くの選手が指導を仰ぎ、成長を遂げた。中村憲剛、加地亮、李忠成……。「選手が成長していくところを見るのはやっぱり楽しいよね」。名将の脳裏に刻まれた教え子たちを振り返る。(取材・文=江藤高志/全3回の2回目)
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石﨑信弘監督の指導を受け、大きく成長した選手は2003年に川崎フロンターレを率いた際、中央大から入団した中村憲剛を筆頭に枚挙にいとまがない。
「憲剛はフロンターレの時だけど、その前で言うと、山形の4年目(1998年)で、エスパルスから佐藤由紀彦をレンタルで借りてきて、ユキヒコはその前に3年間、清水でほとんど出てないんじゃないかな(3シーズンでリーグ戦2試合。カップ戦3試合)。高卒でエスパルス入ってね。で、そういう(出られない)選手がいる言うて、ユキヒコを山形に連れて来て。で、ユキヒコが山形で活躍して、次の年にFC東京に行った」
山形に続くJ2大分トリニータ時代で名前が出てきたのが加地亮だった。
「大分の時は加地亮がセレッソからレンタルで来て、そこで評価されてFC東京に行った」
名門クラブで燻る選手をレンタルで獲得し、鍛え、試合で起用して成長させる。そんな経験を踏まえ、見えてきたことがあるのだという。
「ユキヒコ以前は、ずっとJFL(山形)で新卒の子を指導してたんだけど、ユキヒコのような若くて可能性のある子が、Jリーグ(J2創設は99年から)で埋もれているということ。それは思った」
同じ文脈で中村の最初の舞台はJ2の川崎だった。年代別代表にすら入ったことのない無名選手だったからこそのJ2の舞台で、それが中村の成長に大きい意味をもたらしている。
「J1で活躍できてなくて、若い時にそういう下のリーグでできれば、可能性がある。憲剛の時は中大でちょうど4年生の時に関東リーグ2部じゃった。そういう関係かどうか分からんけど中大の監督から、練習参加させてくれと来て、そこで評価されてチームに入った。憲剛の場合は技術があの頃からしっかりしてたからね。身体は華奢じゃったかもしれんが、技術はしっかりしてたから。やっぱりそこらへんが評価された」
その中村を石﨑監督は全試合でベンチ入りさせて評価していた。
「憲剛なんかはやっぱり攻撃能力とか、シュートだったり、最後のスルーパスだったり、そういうところを評価してシャドーみたいなトップ下みたいなところで使ってたんだけどね」

「結構、ボランチの子をいろんなところで試した」
2003年の川崎以降のチームで出会った選手で、思い出深い選手たちはどんな名前が挙げられるのか。
「レイソル時代の李忠成とか、大谷(秀和)とか。札幌に行けば、まだキャプテンやってるけど宮澤裕樹とか。宮澤なんかは、わしが入った時はもともとセンターフォワード(CF)だったんだけど、CFに外国人がどうしても来るからね。でも可能性があるいうんで、中盤、ボランチとどんどんうしろに来て、ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ監督)の時はセンターバックもやってたけどね」
宮澤のポジションの遍歴は面白いが、逆に言うとサッカー勘の鋭い選手は、どこを任せてもある程度やれるということなのかもしれない。そんな質問に対し「そうだね」と回答した石﨑監督は「結構、ボランチの子をいろんなところで試したことがあるよね。西大伍ももともと中盤の選手でボランチとかだったんだけど、サイドバック(SB)がいない、いうのでSBに持ってたんだよね。それで評価されて、新潟行って、アントラーズに行って、いろんなところでやってるよね。あれも、可能性のある子はいろんなところで使いたい、いうことだし、レイソルの大谷なんかも、あの頃はボランチにイワオ(山根巌)がいたり、リカルジーニョがいたりして、大谷がもったいないというので、彼をSBに持ってたんだよね。そしたら、今で言ったらインナーラップ、偽SBという形で左サイドに持っていったらそこでゲームを結構組み立てて、ゲームを支配するようになった」
ちなみに大谷はその後、SBとしての経験を持ってボランチに返り咲き、柏の主軸選手として活躍した。
監督歴がこれだけ長くなると、教え子が指導者として結果を残すようになる。その筆頭は川崎時代に選手としてプレーしていた鬼木達監督だ。鬼木監督は監督就任初年度の2017年に川崎に初タイトルをもたらすと、指揮した8シーズンで7つのタイトルを獲得。Jリーグで最もタイトルを手にした監督となった。
その鬼木監督に続くのが、大分時代にともに戦った吉田孝行監督で神戸では2023年シーズンからリーグ2連覇を達成。また横浜フリューゲルスの選手として決勝弾を決めチームを優勝に導いた天皇杯第78回大会に続き、指導者として第104回天皇杯を制覇し、昨季はリーグ戦とのシーズン2冠を手にしている。
「神戸の吉田孝行監督は大分の時の選手だし、鬼木(達)監督はフロンターレの時の選手だし」
そう口にした石﨑監督に、川崎時代の教え子で今季はJ3福島ユナイテッドFCを率いる寺田周平監督の名前を例示すると「J3の監督が多いんだよな」と口にして、監督名を列挙し始めた。
「讃岐の米山(篤志)監督や、鳥取の林健太郎監督はヴェルディで一緒だったし。やっぱ今までずっと一緒にやってた選手が指導者になってるからね。今までJリーグで、あるいは日本代表で活躍してる人が指導者になって、やっぱり過去に経験したことをしっかりと勉強して活かしてるからね、素晴らしいなと思うけどね。頑張ってほしいね」

監督歴31年目迎えても…指導者人生へ意欲満々
若手監督の増加は、自らの指導者としてのキャリアの障害になるはずだが「頑張ってほしいね」とおおらかにエールを送る石﨑監督は、監督31年目のシーズンをどんな思いで迎えているのか。
「サッカー好きだし、これしかできんし。岡田さん(岡田武史・FC今治社長)に言われるんだよね。『お前、まだやってるのか』と。でもわし『これしかできんから』と言って」
これしかできないと話す監督業に感じる面白さとはなんなのか。
「わしなんかはJ1のチームでそんなにやってないから、選手が成長していくところ。そういうところでどうしてもあまり評価されてない選手が、自分のチームで活躍して、また違うチームに行くとかね。そういう選手が成長していくところを見るのはやっぱり楽しいよね」
そう口にした石﨑監督が例示する選手は、大分のアカデミー出身で、23年に現役を引退した姫野宥弥氏や、同じく大分のアカデミー出身で、現カターレ富山の吉平翼といった選手たち。過去には大分で再生し、その後川崎、柏と石﨑監督を追いかけた山根巌氏の名前も思い浮かぶ。山根氏は現在、流経大柏高校サッカー部でコーチとして指導しており、先般の高校選手権では準優勝したチームを支えている。(第3回/最終回へ続く)
(江藤高志 / Takashi Eto)

江藤高志
えとう・たかし/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ大会観戦を機にサッカーライターに転身。当時、大分トリニータを率いていた石崎信弘氏の新天地である川崎フロンターレの取材を2001年のシーズン途中から開始した。その後、04年にJ’s GOALの川崎担当記者に就任。15年からはフロンターレ専門Webマガジンの『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営を続けている。