「今年で辞める」はずが…J通算指揮800試合超え 66歳名将が金字塔、蘇る昇降格のドラマ【インタビュー】

昨年にJリーグ史上初通算800試合指揮を達成した石﨑信弘監督【写真提供:ヴァンラーレ八戸】
昨年にJリーグ史上初通算800試合指揮を達成した石﨑信弘監督【写真提供:ヴァンラーレ八戸】

66歳の名将・石﨑信弘監督に訊く、悲喜こもごもの指導者キャリア

 日本サッカー界では数々の名将が生まれてきた。J3ヴァンラーレ八戸を指揮する66歳の石﨑信弘監督はその1人に数えられる。昨年、Jリーグ史上初通算800試合指揮の金字塔を打ち立てた石﨑氏の監督キャリア年数は30年以上。その道のりでは昇降格のドラマを何度も味わった。1995年にNEC山形(当時/現モンテディオ山形)で指導者として歩み始め、これまでどのような思いを抱いてきたのか。指導者人生を改めて振り返ってもらった。(取材・文=江藤高志/全3回の1回目)

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 2024年のシーズン中、J3ヴァンラーレ八戸を指揮する石﨑信弘監督と試合後に立ち話をしていた時のこと。会話の切れ目に「今年で辞めるよ」とぽつり。66歳の名将は同年、Jリーグ史上初となる通算800試合指揮を達成。その記録が途絶えるのだとすると、それなりのニュースになるのではないかと驚いた。

 しかし昨年の11月23日、八戸から契約更新のリリースが発表され、監督続投が決まった。監督業引退をほのめかしたあの言葉はなんだったのか、本人に直撃すると「オファーがあったからな」と一言。ヤキモキした日々を返してほしい思いになった。

 八戸での指揮は今季で3シーズン目。監督として指揮する1試合1試合が記録更新の日々ということになるが「何も思ってない(笑)」と、にべもない回答。「たまたま、積もり積もって800試合を超えたけど、800とか言ってもJ2とかJ3が多いしな」。前人未到の記録に話を向けても、単なる通過点だと言わんばかりの口調だった。

 監督キャリアの始まりは、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)でNEC山形(当時/現モンテディオ山形)を率い始めた1995年に遡る。今年が31年目のシーズンになるが、この間オファーがあればどこにでも行くスタンスで、中国のユースチームや地域リーグ時代のテゲバジャーロ宮崎など、カテゴリーを問わず指揮を続けてきた。

「クビになったら声が掛かるのはあるんだけど、ただやっぱり自分自身としては、何としてでも空けたくないんだよね。一番空いたのは、中国に行った時の13年で、9月の頭で大会(契約)が終わって、次の山形が14年からなんだけど9月から10、11、12の4か月。それが一番長いんじゃないのかな。間が空いたのは」

 シーズン中の解任はこれまで2001年の大分トリニータ時代、18年の宮崎時代を合わせた2度のみ。しかし、いずれも同一シーズン中にすぐに次のオファーが届いている。大分時代は川崎フロンターレから、宮崎時代は藤枝MYFCからだ。

劇的なJ1昇格を達成した2006年の柏レイソル【写真:産経新聞社】
劇的なJ1昇格を達成した2006年の柏レイソル【写真:産経新聞社】

柏監督時代に劇的なJ1昇格、最終節でまさかの展開が…

 Jクラブを率いる監督にとって、タイトルや昇格は勲章だ。いまだメジャータイトルには手が届いてない石﨑監督は、キャリアの中で3度J1昇格を果たしている。2006年の柏レイソル、11年のコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)、14年の山形だ。

「3チームとも全く違うタイプのチーム」(石﨑監督)と言うなか、自身の監督キャリアで初のJ1昇格へ導いた柏監督時代を「J1から落ちてきてある程度ベテランの有名な選手が移籍してしまって、若手でというところでチームを作った」と振り返る。

 当時の柏は前シーズン、J1で18チーム中16位に沈み、J2・3位のヴァンフォーレ甲府と入れ替え戦で対峙。ホーム&アウェーで行われたエピソード満載の2試合の末に敗北。J2に降格したチームの再建を託された。

「最初は結構成績が良かったんだけど、あの頃のJ2は4回戦総当たりでやっていて(13チーム、52試合)シーズンが長くて、浮き沈みがあって、最終戦の前は、神戸が2位だった(勝ち点86)。1位が横浜FC(勝ち点90)で、3位がレイソル(勝ち点85)」

 勝ち点1差で神戸を追いかける柏は最終節にアウェーでの湘南ベルマーレ戦に臨み3-0で勝利。一方、勝てば無条件で昇格が決まるヴィッセル神戸はアウェーでベガルタ仙台と対戦し1-2で敗れた。その結果、柏が最終節に神戸を逆転し2位でのJ1昇格を決めた。

 監督キャリア2度目のJ1昇格を掴んだ札幌での2011年シーズンは「最初全然ダメで、なかなか勝てなかった」と振り返る。それでも、試合を重ねるなかで「終盤にかけてぐっと力がついてきた」と石﨑監督。上位3チームまでが自動昇格するレギュレーションで、札幌は3位でのJ1昇格を決めている。

 3度目のJ1昇格は2014年の山形時代。シーズン6位でJ1昇格プレーオフへ進出し、4位ジュビロ磐田の本拠地に乗り込み、一発勝負の準決勝を迎えた。

 引き分けの場合、上位の磐田が勝ち上がるレギュレーションで行われたなか、1-1の後半アディショナルタイムのCK(コーナーキック)で、捨て身のGK山岸範宏が頭で流し込み劇的勝利。シーズン3位のジェフユナイテッド千葉戦との決勝戦も1-0で制し、6位からの下剋上を果たした。

「山形の場合はやっぱり最初なかなかうまくいかなくて、途中からあれはシステムを変えたんだよね。4バックから3バックにシステムを変えて、そこから勢いに乗って、プレーオフで昇格した。3回上がってるけど、3回とも形が全然違うんだよね。

 チーム力があればね。確実に力があれば、そこまで大きく変えなくても行けると思うんだけど、やっぱり力のないチームを上げていこうとすれば、いろんなことをやっていかなければいけないんじゃないのかな」

勝ち点1足りず昇格を逃した苦い経験も

 石﨑監督は2006年の柏時代に最終節の劇的な昇格を経験した一方、勝ち点1足りず昇格を逃す経験を3度している。その中でも特に悔しい経験として挙げたのが大分での2シーズンだった。

「1999年の大分の時の最終戦。1-0で勝っていた山形戦。最後の最後、ロスタイムに(吉田達磨・現大田ハナシチズン戦術コーチが蹴る)フリーキックが直接入ってね。ロスタイムまでは昇格だったからね。それと次の年、浦和と鳥栖の延長戦を見てたんだよね(当時のJ2は延長戦が存在。大分は90分で勝利。暫定2位で浦和対鳥栖の結果を待つことに)。そしたら土橋(正樹)がすごいシュート決めて上がれなかった(浦和がVゴールで勝利し勝ち点2を追加して勝ち点1差で大分を逆転。2位でJ1復帰を決めた)」

 石﨑監督は2003年に川崎フロンターレを率いていた際にも、勝ち点1足りずJ1昇格を逃す経験をしている。ただし、そのチームを引き継いだ関塚隆監督が翌年のJ2を圧倒的な強さで勝ち進み、J1復帰を達成。この04年の快進撃と、その後の川崎の成長の影には01年途中から03年まで率いた石﨑監督の土台があったと言われている。

 チーム作りに定評がある一方、過去に2度、J1からJ2に降格させてしまった経験もある。自らが率いてJ1に昇格させた札幌と山形の2チームは、いずれも翌シーズンのJ1での成績が振るわず、降格の憂き目に。

 その話を向けた途端「忘れた(笑)」と即答した石﨑監督に、昇降格を繰り返すよりもJ2で地力を付けて上がるべきかを問うと、自らの経験を重ねて「よう分からんけど、やっぱり上がれる時に上がっておかないと、そんなにチャンスってないからね」と口にした。勝ち点1に泣かされた経験を3度経験した監督の言葉は重かった。

 J2の予算規模でJ1を生き残るのは並大抵のことではない。「レイソルはお金があったから補強もできたけど、J2の選手そのままで戦おうと思ったら難しいよね」。そう言って百戦錬磨の名将は、激闘の日々を懐かしそうに振り返った。(第2回へ続く)

(江藤高志 / Takashi Eto)



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江藤高志

えとう・たかし/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ大会観戦を機にサッカーライターに転身。当時、大分トリニータを率いていた石崎信弘氏の新天地である川崎フロンターレの取材を2001年のシーズン途中から開始した。その後、04年にJ’s GOALの川崎担当記者に就任。15年からはフロンターレ専門Webマガジンの『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営を続けている。

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