“盟友”ピクシーに相談…数秒の沈黙「それでも行くのか?」 異例のキャリアを歩む日本人指揮官の挑戦【インタビュー】

欧州で経験を積んだ喜熨斗勝史氏、マレーシアのセランゴールで指揮官として挑戦
ヨーロッパの最前線でコーチとして実績を残した喜熨斗勝史氏がマレーシアのセランゴールで監督としてのキャリアを歩み始めた。名古屋グランパスやセルビア代表で指揮を執ったドラガン・ストイコビッチ監督の“右腕”として日本人の指導者としては前例のない経験を積んできた。そんな彼はなぜ60歳の節目にマレーシアへ渡ることを決断したのだろうか。(取材・文=石川 遼/全4回の1回目)
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喜熨斗氏は1995年にベルマーレ平塚(当時)でプロクラブでの指導者キャリアをスタートさせ、その後はJクラブを渡り歩いた。2008年にはストイコビッチ監督体制の名古屋グランパスに入閣し、リーグ制覇も経験。以降、中国の広州富力(2015〜2021年)とセルビア代表(2021〜24年)でもストイコビッチ監督の下でコーチを務めた。
「私はピクシー(ストイコビッチ氏の愛称)に呼ばれて、日本人が誰も経験していないヨーロッパの強豪の代表チームでアシスタントコーチを務めさせてもらいました。4年半の間にワールドカップ(W杯)やEURO(欧州選手権)も経験しました。イングランドやデンマークといった強いチームと対戦することもできて、サッカーの見方が変わる本当に重要な4年間でした」
ピクシーから絶大な信頼を寄せられ、そのままセルビアでコーチとしてさらにキャリアを積み重ねることもできた。しかし、「いつかは監督」という夢を持って歩き始めた指導者の道だ。ライセンスの問題により欧州で監督になることはできない。そうしたなかで舞い込んできたのが、マレーシアのセランゴールからのオファーだった。
「ちょうどセルビア代表がネーションズリーグのリーグA残留が決まる試合の1、2週間ぐらい前に、私のCV(経歴書)を見て、あるクラブが興味を持っているという話がありました。それがセランゴール。セランゴール州の皇太子がオーナーをしている歴史あるクラブです。ヨーロッパで経験がある指導者を探しているということでしたが、ヨーロッパ人を呼ぶにはお金がかかるし、時期的にもいい候補者がいない。そうしたなかで、経験も資格もある人物として私に白羽の矢が立ったそうです」
ピクシーから掛けられた温かい言葉「俺たちはもう60歳。思い切ってやってこい」
念願だった監督としてのオファー。60歳を迎えた直後に訪れた千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「ネーションズリーグの残留が決まったタイミングで、ストイコビッチ監督に『こういう(監督のオファー)話が来ています。僕としては自分の夢を叶えるために、オファーを受けたいと思っています』と伝えました。その話があった数週間前に60歳になっていて、このタイミングを逃したらもうないなって思いました。
ピクシーには『まだセルビアとの契約が1年半残っているんだぞ』と言われました。『それでも行くのか?』とも。でも、1年半後にまた別のオファーが来る保証はない。ここで勝負したいと自分の思いを伝えました。ピクシーは少し黙ったあと、『チャレンジをする気持ちがあるなら、こっちはなんとかするから行ってこい』と言ってくれました。同時に『本当に残念だ』とも言われました。私とストイコビッチ監督は同級生。『俺たちはもう60歳。思い切ってやってこい』と。スイスとの試合が終わったあとにチームにも伝えて、選手たちもみんなで『頑張れ』と背中を押してくれました」
セルビアで最後のネーションズリーグの試合を戦った10日後にはセランゴールの監督としてデビューという慌ただしい船出だった。就任直後は黒星が続いたものの、その後は14試合負けなし(12勝2分)という怒涛の快進撃を見せ、セランゴールはリーグ2位を確定させ、来季のACL2出場権を獲得した。また、国内カップ戦のマレーシアチャレンジカップでは見事に優勝。就任間もなく、チームにタイトルをもたらした。
他に例を見ないキャリアを歩んできた男が還暦を迎えて踏み出した大きな一歩。ACL2ではJリーグクラブと対戦する可能性もあるだろう。マレーシアの地で始まった日本人指揮官の挑戦に注目したい。
(石川 遼 / Ryo Ishikawa)