営業マン→W杯出場「特殊な職業」 “人生勝負”の助言でプロへ…世界で活躍した日本人の過去【インタビュー】

西村元主審が歩んだ審判員への軌跡
2024年シーズン限りで、西村雄一審判員がトップリーグの担当から勇退した。主審としてJリーグ通算682試合を担当し、国際審判員として2010年、14年のワールドカップ(W杯)でも笛を吹いた。そんな西村氏は、アマチュア時代にサラリーマンと“二足の草鞋”で奮闘していた時期もあった。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・金子拳也/全4回の1回目)
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Jリーグ最優秀主審賞を計11回獲得。2004年からはプロフェッショナルレフェリー(PR)として日本のサッカー界を支えてきた。25年から新たにJFA(日本サッカー協会)審判マネジャーに就任し、また違った面からJリーグを盛り上げようとしている。
そんな西村氏が審判を始めたのは、Jリーグ発足前だった。当時「サッカー審判」という職業はなく、サッカーコーチとして子どもたちへの指導をする傍ら、ふと思った「レフェリーという立場で支える方法もあるな」という理由から審判に興味を持つ。
「子どもたちの夢を支えるような存在」。この思いが、長年西村氏が最も大切にしてきた部分だ。審判を続けるため、就職時には東京に本社があり、かつ週末に自由が利く会社を探す。西村氏の時代はいわゆる“就職氷河期”だったが、何とか希望の叶う会社へ入社した。
「株式会社ボナファイド(以下:ボナファイド)というところに約10年間、営業マンとして働いていましたね。1993年にJリーグが開幕し、僕が入社11年目の年に、JFAからPR(当時はSR)への打診がありました。2002年にできた制度でしたが、当時は実績のある岡田正義さんや上川徹さんが初代PRとなり、翌年に吉田寿光さんと柏原丈二さん(がPRになった)。その翌年、私に声がかかったんです」
西村氏は2004年当時、国際審判員に任命されたばかり。まだJリーグでの経験は浅い。「自分にPRが務まるのか……」。そんな思いが強くあったが、背中を押してくれたのは、所属していたボナファイドの社長だった。
「どうしても自分では決断できず、社長に相談しました。『男なら人生勝負する時があるんじゃないか?』と、即答され『そういうものなんだ』と思い覚悟を決めたんです。もしも僕がPRとしてうまくいかなかったら、若手へのチャンスの門を閉ざしてしまう。2024年までの21年間、この道を閉ざさないために、必死に走ってきました」
営業マンとして働いたボナファイドに恩義
西村氏は、ボナファイドへ大きな恩義を感じている。“営業マン”と審判員の両立は、大変ではなかったのだろうか。
「金曜日に移動しなければならないことや、日曜日のナイトゲームだと月曜の朝に間に合わないことがありました。有休をうまく活用しながら、会社もだいぶ僕の活動を理解してくれていました。ありがたかったですね。営業成績として年間で見た時、約11か月で12か月分の成果を出す。僕としては絶対に譲ってはいけないところだと思っていました。自分の好きなことをさせてもらって、営業成績がうまくいかないのはちょっと話が違いますから」
自身の活動を理解してくるボナファイドへ“恩返し”するため必死で働いた。「最初の3年間は本当にただのお荷物だった」。新卒入社はこうした立場から始まるのが常だが、西村氏はその先を見据えていた。
「5、6年目がやっと自分の給料と同じくらいの営業成績になりました。本来は10年目以降でやっと自分の給料と、営業活動していない部門の方々の給料まで稼ぐのが求められるべき姿だと思っていました。その意味では、道半ばだったかもしれません。けれど社会人として大切にすべき『人となり』を学ぶことができました」
西村氏の責任感が伝わる言葉だった。父親も“営業マン”だったという西村氏。レフェリーは「特殊な職業」だと感じており「わずか25人前後のメンバーだけが、特別な形での契約形態を結んでいるんです」とPRとはどんな存在かをあらためて提示していた。

営業マン西村氏「商品を判定に置き換えて」
会社名の“ボナファイド”は、「誠意・誠実」。西村氏は「本当にあの会社なくして、今の僕のレフェリングスタイルにはなっていなかったです」と、営業スタイルがそのまま自身のレフェリングにつながっていると感じているようだ。
「商品をお客様にご提案して、それによって会社の効率や業績が上がる。その結果お客様が喜び満足する。そういったサポートをしていました。その『商品』は、レフェリーになると『判定』に置き換えられます。その判定が良ければ選手が満足してくれる。満足が複数回重なっていくと、より信頼度が深まっていきます。より信頼度が深まれば、ゲームのスムーズなマネジメントにつながるんです」
今は審判活動に理解を示す企業も増えた。一方で西村氏が若手に説くのが「レフェリーである前に、社会に必要とされる人であること」。自身が過去そうしてきたように、レフェリーとしての技量だけではなく、仕事上でもしっかり認められる存在であることを求めている。
「例えば仕事上で周りから『あの人いつもいい準備しているよね』『いつも困難に立ち向かっているよね』『難しいプロジェクトだけど前向きに頑張っているよね』と評価を受けたとします。その理由を探った時に『あぁ、サッカーのレフェリーやっているからだね』となる。このような社会から頼られる人になってほしいですね。ピッチ上の90分よりも、試合以外の時間のほうが長い。その時間でどういう姿を見せているのかが大切です」
まさに“営業スタイル”が活きた西村氏のレフェリングは、人と人をつなぐコミュニケーションを取るうえで「いかに相手をリスペクトできるか」を体現したようなものだった。会社員として働いた10年間の経験が、存分に発揮された結果だったのだ。
[プロフィール]
西村雄一(にしむら・ゆういち)/1972年4月17日生まれ、東京都出身。1999年に1級審判員登録。2004年に国際審判員、史上5人目となるプロフェッショナルレフェリー(PR)に抜擢された。Jリーグ通算682試合を担当。2010年南アフリカW杯、14年ブラジルW杯の審判員としても活躍。24年にトップリーグ担当を勇退。現在はJFA審判マネジャーとして後進育成に従事している。
(FOOTBALL ZONE編集部・金子拳也 / Kenya Kaneko)