Jリーガーと慶應生の二刀流も戦力外 異例の大学“出戻り”→再びプロの裏側「0円ですと突きつけられた」【インタビュー】

現役時代は湘南や横浜FM、福岡でプレーした中町公祐氏【写真:本人提供】
現役時代は湘南や横浜FM、福岡でプレーした中町公祐氏【写真:本人提供】

湘南や横浜FM、福岡で活躍した中町公祐氏

 群馬県の名門進学校である高崎高校を卒業後、Jリーガー(湘南ベルマーレ)と慶應大学の学生として二刀流生活を始めた中町公祐氏。ルーキーイヤーの2004年に11試合出場を果たしたのを皮切りに、3年目には34試合出場と順調にプロサッカー選手としてのキャリアを積んでいたかのように見えた。しかし、翌2007年には出場機会が激減。そしてシーズン終了後には戦力外通知を受けた。一体何があったのか。(取材・文=中倉一志/全4回の1回目)

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「僕は若い時から正義感が強く、自分が正しいと思ったことには正面からぶつかっていくタイプだったんです。当時、強化部長に対して『いや、それはおかしいと思います』『そこはこうじゃないですか』みたいなことが何回かありました。今ならあんな伝え方はしないなと思いますし、改めて振り返ってみても、自分の考えは今でも正しいと思うんですけれど、その伝え方しかなかったのか、伝え方として正しかったのかと言えば、そうではないなと。今ならそういう気付きがありますが、ベルマーレの時はそういうこともありました」

 結局、2007シーズンは9試合出場無得点という結果に終わり、シーズン終了後に戦力外通告を受け、シーズンオフにはトライアウトも受けた。しかし、Jリーグはおろか、地域リーグからさえも声がかからなかった。

「それまでサッカーが自分の価値の証明でしたが『あなたの価値はありません。0円です』と突きつけられました」

 だが、彼にはいくつもの出会いがあり、それがその後の彼のサッカー人生に大きな影響を与えることになる。最初の出会いは湘南でのプロ1年目に出会った望月達也コーチ(現川崎フロンターレ・アカデミーダイレクター)。サッカー観や考える部分を養いたいとの想いを持っていた中町氏は、全体練習が終わると2人で何時間もビデオを見て議論を交わした。のちに、それが自分のサッカースタイルの原点になっていると中町氏は語っている。

新入部員として水汲みから始めた中町氏

 そして、慶應大学ソッカー部との関わり合いも中町氏を語る上では欠かせない。大学を経由してJリーグ復帰を目指した中町氏を快く受け入れ、そして中町氏も新入部員として水汲みから始めたという関係の中で、新しい希望に目覚めていく。

「サッカーが上手ければステップアップできるのがプロ。けれどソッカー部では組織の一員として何ができるのか、どういう振る舞いが大切なのかということを学べたのが大きかったですね。普段は鎬を削り合っていても、試合になったら同級生や歳の近い連中が競争相手ではなく仲間として全力で応援してくれる。プレーヤーとしての喜びを再認識することができました」

 入部1年目で慶應大学ソッカー部を7年ぶりの1部リーグ昇格に導き、当初の目標通り、湘南を離れてから2年後にアビスパ福岡の一員としてJリーグ復帰を果たした。そこでは、所属先がなかなか決まらないなか、最後まで熱いエールを送り続けた田部和良(1961年11月25日 – 2014年5月9日)強化部長と、中町氏が「この監督のために勝とうと初めて思った監督」と話す篠田善之監督(現中国甲級リーグ、南通支雲足球倶楽部監督)との出会いがあった。そしてJ1昇格を果たした。

「サッカー人生で一番楽しかったんじゃないかと思えるような1年でした。もちろんマリノスでの7年間も充実していましたけれど、あの時の規模感といい、選手と一緒に駆け上がる感じは何物にも代えがたいものでしたね。全員で道を切り開いている感があって、すごく気持ちが乗っていましたから」

 翌年はコンディションを崩して本来の力を発揮できず、チームもJ2に降格してしまったが、その実力を買われて横浜F・マリノスに移籍。中心選手として活躍し、2013年にはリーグ2位、天皇杯優勝に大きく貢献した他、その後の活躍はここで触れるまでもないだろう。プロ選手としてのスタート時点で少しのつまずきはあったものの、アビスパ福岡での2年間、横浜F・マリノスでの7年間で多くの人から愛されたのは、常にサッカーと真摯に向き合い、人間・中町公祐をサッカーを通して表現し続けたからにほかならない。

(中倉一志/Hitoshi Nakakura)



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