“20冠”の立役者と過ごした14年間 「恩返しができなかった」と不完全燃焼も…J名門での経験【インタビュー】

大分の吉岡宗重スポーツダイレクター【写真:(C) OITA F.C.】
大分の吉岡宗重スポーツダイレクター【写真:(C) OITA F.C.】

大分の吉岡宗重SDが鹿島在籍の14年間を回顧

 今季から大分トリニータの強化トップに復帰した吉岡宗重スポーツダイレクター(SD)は、鹿島アントラーズで14年間を過ごしたという貴重な経験値の持ち主である。2011年に赴いた頃の鹿島はまさに常勝軍団。オズワルド・オリヴェイラ監督体制で3連覇した2007~09年のピークは過ぎていたものの、10年の天皇杯優勝、11~12年のヤマザキナビスコカップ連覇など、毎年のようにタイトルを獲っている時期だった。(取材・文=元川悦子/全5回の3回目)

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 吉岡SDは鹿島行きの経緯をしみじみとこう振り返る。

「僕が(鈴木)満さん(当時強化部長、現強化アドバイザー)から誘ってもらったのは、2009年のことなんです。その頃の僕は大分の一強化担当だったんですけど、上司だった原さん(靖・現町田フットボールダイレクター=FD)がかなり権限移譲してくれて、Jリーグ強化担当者会議に出席することも多かった。まだ30歳前後の若造が偉大な先輩たちの前で意見を言う姿を見て、気にかけてくれたんでしょうね。

 でも最初は『大分をすぐには辞められません』と断りました。すると、満さんは『1年待ってやる』と言うんです。『お前が必要なのは今じゃない。10年後に必要になるから、今、誘っているんだ』と話してくれて、本当に嬉しかったですね。

 それで1年間、大分で働いてから、2011年に鹿島へ行くという決断をしましたが、やはり勝利に対するスタッフ・現場1人1人の執着心が全然違った。クラブハウスに入った瞬間からそれを感じました。ひょっとしたら外から来た選手は息苦しさを覚えるかもしれないけど、それくらい厳しい環境だったからこそ、僕は行くことを決断したんです」

 1978年生まれの彼は小笠原満男(現アカデミーテクニカルダイレクター)や本山雅志(同スカウト)、中田浩二(現FD)の1つ上。彼らのことを身近に感じつつ、真のプロフェッショナリズムを体感したのではないだろうか。

「彼らとは年齢が近いですけど、選手と強化という立場もあって、“友達感覚”のようなものは一切なかったですね。僕は強化スタッフとして一挙手一投足を客観的に見ていましたけど、満男なんかは30歳を超えているのにアップから集中力を高めて取り組んでいた。彼があそこまでやっていたら、誰も気を抜けないなと痛感しましたね。野沢拓也なんかもあまり口数が多い人間ではないですけど、じっくり話をすると非常に深くサッカーを考えている。ある意味、“センスの塊”みたいな人間で学ぶことが多かったですね」

元鹿島の敏腕強化部長として知られる鈴木満氏(写真右)【写真:Getty Images】
元鹿島の敏腕強化部長として知られる鈴木満氏(写真右)【写真:Getty Images】

敏腕強化部長との仕事から得た学び

 Jリーグのトップ・オブ・トップの強豪クラブを作り上げ、20冠をもたらしたのは、敏腕強化部長として知られる鈴木満氏である。偉大な人物の横で仕事をしてきた吉岡SDほど、その凄さを知る人はいないと言っても過言ではないだろう。と同時に、吉岡SDにとっては自分の進むべき道を見出すことにもつながったという。

「満さんから『これどう思う』と聞かれことに対して、最初は答えられることが少なかった。満さんなりの鍛え方かもしれませんけど、『これを把握できていないのか』と僕に感じさせるように仕向けてくれたんだと思います。そういうことが何度か繰り返されるうちに、『満さんに何か問いかけられた時に答えられるようなアンテナの張り方が必要だ』と痛感して、それを意識するようになりました。

 そこで一番大事にしなきゃいけないのは、ピッチをよく見ること。選手だけを見るんじゃなくて、コーチやスタッフ、トレーナーが何をしているのか、どんな発言をしているのかまで気配りして、幅広く情報を察知するようにしたんです」

 もう1つ、鈴木氏から学び取ったのは「一体感を作ることの重要性」だ。吉岡SDは師と仰ぐ先人に心からの敬意を払い、こう語る。

「もともと鹿島は勝利への執着心が強いクラブですけど、個人事業主の集まりでもある。満さんは彼らの個性を認めつつ、意見に耳を傾けながら、同じ方向に進んでいく強固な集団を作っていた。それは簡単にできることではないですね。やはり満さんのリーダーシップと人柄によるところが大だと感じます。『満さんが言うんだからやろうぜ』と選手たちに思わせてしまう器の大きさを備えた人で、まさにカリスマですよね。20冠という実績含めて、ああいう強化トップはなかなか出てこない。超えたいけど、超えられないでしょうね……」

 その鈴木満氏から2021年末にFDのポジションを引き継ぐことになった時の重圧は相当なものがあったはず。しかも鹿島は16年を最後にJ1タイトルから遠ざかっており、18年AFCチャンピオンズリーグ制覇からも3年という時が経過していた。常勝軍団復活を託された吉岡FDは一番難しい時に強化トップの重責を担ったのである。

「正直、かなりのプレッシャーがありましたね。満さんの後任というだけことでなく、やはり鹿島アントラーズの強化責任者というのは非常に重要なポスト。難しさは感じましたけど『やってやるぞ』という思いもありました。自分を呼んでくれた満さんと一緒にタイトルを獲りたいという気持ちも強かったので、そのために何ができるのかを考えました」

 新たな意欲を胸に2022年から強化の指揮を執った吉岡SDだったが、鹿島はレネ・ヴァイラー(現セルヴェット)、岩政大樹(現北海道コンサドーレ札幌)、ランコ・ポポヴィッチ、中後雅喜(現鹿島コーチ)と3年間で4人の監督が指揮を執るような状態に陥ってしまった。順位も2022年が4位、23・24年が5位。課されていたタイトル獲得のノルマを果たせないまま、志半ばでチームを去ることになったのである。

「監督を選ぶ難しさというのは非常に強く感じましたね。決めた以上はサポートしていく覚悟を持ってやっていましたけど、結果的に監督が何人も替わるような事態になってしまいました。特に去年は『今年タイトルを獲れなかったら自分はもう辞めざるを得ない』と腹をくくっていたので、10月の決定もやむを得ないと思いました。

 タイトルが獲れず、クラブに対してもそうですが、僕を引っ張ってくれた満さんに恩返しができなかったことは本当に申し訳ない。それが素直な気持ちです」

 鹿島での14年間が不完全燃焼な形で終わったのは悔しいことだが、それがサッカーの世界の現実だ。40代半ばになった吉岡SDは新たな地で一から再出発することになったのである。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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