気丈な監督が「涙を流した」…90分後の姿にもらい泣き、被災地への1勝は「奇跡だと思います」【コラム】

東日本大震災発生から約1か月後、川崎と仙台が戦ったJ再開試合の回顧録
2011年3月11日14時46分。
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その時、川崎フロンターレは週末に控えるJ1リーグ第2節の横浜F・マリノス戦に向けたトレーニング中だった。ウォーミングアップ中に、この未曾有の大震災の余波に襲われたのである。
グラウンドでも体感できるほどの強い揺れだったが、すぐに収まったこともありチームは練習を続行した。この時点で試合が延期になるとは誰1人想像していなかっただろうが、事態は時間を追うごとに深刻さを増していく。練習が終わる頃には、週末に行われるはずだったJリーグ全カードの開催延期の決定が下されていた。
筆者も麻生グラウンドにいた。
週末の試合に向けた取材をするはずが、それどころではなくなっていた。練習後、クラブハウスで状況を把握した選手たちも神妙な面持ちで帰宅していく。当時主将だった井川祐輔は「寝ていて揺れを感じたと思ったら、父親が覆いかぶさってきて……」と、幼い頃に体験した阪神・淡路大震災の記憶を振り返りながらコメントし、今後に向けては「できることがあれば考えていきたい」とチームを代表して話していた。当時の相馬直樹監督も「事態を知れば知るほど、試合中止は当然の決定だと思います。被害に遭われた方に対して何て言葉をかけたらいいのか……言葉が見つかりません」と言葉を選びながら話していた。
Jリーグの試合再開が発表されたのは、東日本大震災発生から約1か月後のことだ。
再開は第7節からとなり、川崎の対戦相手は、壊滅的な被害を受けたベガルタ仙台だった。大きな注目を浴びるカードになることは容易に想像がつくものだった。等々力陸上競技場(現Uvanceとどろきスタジアム)でのホームゲームとはいえ、川崎にとって極めて難しいゲームになることも意味していた。
しかし、川崎は優勝を目標に掲げているチームであり、この中断期間にそれだけのトレーニングも積んできた自負もあった。仙台が強い気持ちを持って臨んでくることは確かだが、それを正々堂々と跳ね返す力もある。「そこで負けたらダメだ」と、試合前日に選手たちだけで話し合い、気合いを入れ直して臨んだという。

川崎が先制も…激しい雨の中で仙台の反撃が実を結ぶ
試合当日の4月23日、等々力では朝から強い雨が降り注いでいた。
ピッチには多くの視線が注がれ、いつもとも少し違う緊張感が漂っている。それはキックオフの笛が鳴っても変わらない。仙台の選手たちが特別な思いを背負って戦いに臨んでいることは、対峙する川崎の選手たちにもすぐに伝わってきた。
1か月半ぶりの公式戦ということもあり、試合自体はお互いに慎重なゲーム運びが続いた。均衡を破ったのはホームの川崎。前半38分、山瀬功治が縦に抜け出すと、その折り返しを田中裕介が流し込んで先制に成功した。リードしてハーフタイムへ。決定的なピンチも少なく、川崎としては悪くない前半だった。
激しい雨は、後半になっても止まなかった。
1-0のスコアのまま時間が進むにつれて、仙台はロングボールを多用し始めてくる。後半26分、中盤でヘディングの応酬が続き、そのボールが自陣まで押し返されてきた時のこと。味方がクリアしようとしたボールが飛び込んできた相手にブロックされ、それをキープした仙台の赤嶺真吾が素早く反転。ゴール前に走りこんできた太田吉彰に絶妙なパスを送った。仙台の決定機だ。
シュート体勢に入っている太田には、川崎の小宮山尊信がブロックに向かっていた。そのカバーリングが間に合うと思った横山知伸は小宮山の背後から回り込み、身を投げ出してスライディングを敢行。うまくシュートコースに入ったはずだった。
ところが、倒れこむ格好で打った太田のシュートの威力は予想していたよりも弱く、スピードが遅かった。それによって横山が出した左足にシュートが当たった軌道は予想しない方向に飛んだ。セービング体勢に入っていたGK杉山力裕の逆をつくようなコースにシュートが飛び、その右手を越えてゴールネットに波打ったのだ。仙台の同点弾である。
殊勲の太田は、その場に倒れこんだままガッツポーズを繰り出し、そのまま担架で運ばれて退いていた。実はシュートを打つ時点ですでに両足をつっており、それが原因でボールにもうまくミート出来なかったのだという。そんな不運な一撃で、川崎はそのシーズンで初失点を喫した。
さらに終了間際の後半42分。フリーキックのチャンスを得た仙台は、キックに定評のある梁勇基のクロスを鎌田次郎がヘディングで合わせて叩き込んだ。執念とも言える形で、ついに仙台が逆転に成功。そして試合はそのまま終了した。
川崎としては痛恨とも言える敗戦。それも、ほとんどなかった等々力競技場で刻まれた逆転負けだった。一方、復興の星となる仙台の逆転劇は「被災地に捧げる勝利」として、その日のトップニュースになった。
仙台の選手としてピッチに立った角田の記憶に残る手倉森監督の涙
この試合で仙台の選手としてピッチに立っていたのが角田誠である。のちにチームキャプテンも務めたが、2015年には川崎に移籍している。彼に試合の記憶を尋ねる機会があったのだが、あの日の試合内容はほとんど覚えていないという。試合中はとにかく無我夢中だったからだ。
「みんなが頑張った結果だけど、最後に逆転したのは奇跡だと思います。サポーターも多かったし、すべてのパワーが乗り移った試合じゃないかな………。フロンターレはやりにくい試合だったと思います」
彼の記憶が鮮明なのは、試合よりもその後の出来事だという。夜に試合映像を見直したら、勝利後のTVインタビューで手倉森誠監督が号泣していたからである。その姿に角田は思わずもらい泣きをしたという。
「あんなに強い人が、試合後に涙を流していた。手倉森さんは僕らの前では気丈だったし、常にポジティブなことしか言わなかったんです。『サッカーの有難みを感じろ。自分らのためじゃなくて、被災した人たちのために戦え』と、ずっと言っていた。千葉でキャンプしている時も、『貸してくれる人に感謝しろ』と言い続けていた。あの人が涙を流していたので………」
このカードは多くの人の記憶に残るものとなった。2023年の「Jリーグ30周年記念イベント」において、ファン・サポーターの投票によって選ばれるベストマッチにも輝いている。
両クラブの絆が深まったことでも知られている。サポーター同士の交流も続いており、10年後の節目となる2021年3月に復興祈念マッチと銘打たれて行われた第2節では、新型コロナウイルスの影響でアウェー席が設けられないなか、仙台サポーターの応援エリアの一角に川崎の横断幕が掲げられたほどだ。
あの日から14年が経つが、川崎は震災を風化させていない。クラブは「支援はブームじゃない」を合い言葉に、継続的な支援活動や陸前高田への訪問活動を現在も続けている。

いしかわごう
いしかわ・ごう/北海道出身。大学卒業後、スカパー!の番組スタッフを経て、サッカー専門新聞『EL GOLAZO』の担当記者として活動。現在はフリーランスとして川崎フロンターレを取材し、専門誌を中心に寄稿。著書に『将棋でサッカーが面白くなる本』(朝日新聞出版)、『川崎フロンターレあるある』(TOブックス)など。将棋はアマ三段(日本将棋連盟三段免状所有)。