外国人監督が見たクラブ消滅…戦いも「意味なかった」 激動のなか気になった日本人の口癖【インタビュー】

徳島コーチのエンゲルス氏「ACミランとインテルが一緒になるとかありえない」
Jリーグ創設前から日本で指導者として活動し、監督としては横浜フリューゲルスや京都パープルサンガ(当時名称)などを率いたゲルト・エンゲルス氏は、今季J2の徳島ヴォルティスでコーチを務める。そのドイツ人指導者にとって日本でのキャリア前半の大きな出来事は、自身が率いた横浜フリューゲルスが合併になったことだ。ドイツでの常識からは考えられなかった出来事を振り返りつつ、日本人の口癖とも言える表現を指摘した。(取材・文=轡田哲朗/全6回の3回目)
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「もう考えることもなくすぐにOKを出したよ」と話したのが、横浜フリューゲルスからのオファーだった。1993年に開幕したJリーグの「オリジナル10」であり、日本リーグ時代の全日空を中心にしたチームで、MFサンパイオやMFジーニョといったブラジル代表クラスの選手たち、衝撃的なフリーキックを連発したMFエドゥー・マランゴンや愛嬌あるキャラクターで知られたDFモネールといった外国人選手たちはもちろん、MF前園真聖やMF遠藤保仁といった後に五輪やワールドカップ(W杯)で主力として活躍する才能も若手として所属した。
Jリーグ初年度の天皇杯を制すなど、実力あるチームのサテライトコーチに就任したエンゲルス氏は、監督交代などのタイミングでトップチームのコーチになり、最終的には監督も務めた。横浜マリノス(当時)との合併話が浮上したのは、そんな1998年のことだった。
「J1とかブンデスリーガのトップレベルのチームがなくなるなんて、全然予想もしてなかった。すごくショックでビックリして、信じられなかった」と話すエンゲルス氏は、「だってそうでしょ?」と、ヨーロッパを例に挙げて自身が育ってきた常識との違いを話す。
「初めてその話を聞いたとき、お金の問題があるという話は理解できた。でも、合併のことは最後まで実現すると思わなかった。例えばACミランとインテルが一緒になるとかありえないって感じるし、たまにあるでしょ? バルセロナとかレアル・マドリードとかすごい借金を背負っても、どうにかなる。ドイツでもそうだね。最初はそんな気持ちだった」
先行き不透明な環境のなかでもチームは有終の美を飾る
だから当時のチームを率いていた指揮官の頭に思い浮かんだのは、チームをダウンサイジングしたなかでも競争力をどう維持するかで、「例えばヨーロッパならいい選手、例えばあの時なら山口素弘とかサンパイオとかのいい選手を移籍させてお金を作って若いチームにするとか。ドイツもお金ないチームはある。そういうチームの予算はバイエルン・ミュンヘンと全然違う。そしたら安いチームを作りましょうとか、スカウティングしていきましょうとか。最初はそう思ったね。高い選手とかいい選手が少なくなるけど、安い予算で若い選手を育てるとか最初はそう思ったんだけどね」というもの。しかし、当時の日本サッカーはそこまで成熟していなかったし、日本社会にありがちな構図も透けて見えた部分があるのだという。
「強化部とも話したときにそういうことも言ったし、頑張れば、とか。でも、全然そんな雰囲気じゃなかった。『違う違う、決まったよ』と。横浜駅に行って署名活動もしたし、やるときはあまり分かっていなかったけど、その後に理解した。伝える前に全部確実に決まっていたんだなって。我々は戦ったけど、今から見るとあまり意味はなかったね」
そんな先行き不透明な環境のなかでもチームは最後の舞台となった天皇杯を勝ち上がり、1999年元日に決勝が行われた国立競技場で有終の美を飾る。このときに決勝ゴールを決めたのは、現ヴィッセル神戸監督の吉田孝行だった。
「今でも泣いたり笑ったりだね。その話をすると、今でも鳥肌が立つようなものはある。もちろん、問題が出た瞬間の雰囲気は良くなる。よくあるでしょ? 問題が起こると仲良くなるし、一緒に頑張ってチームスピリットは出てくる。つらかったよね。
今でも、フリューゲルスのLINEグループがあるんだよ。当然、そういう時期があったからそういう団結も強くなったと思うけど、誰かがどこかのタイトルを獲った、仕事が決まったとかなると、おめでとうって。例えばこの前、吉田がタイトルを2回獲ったら、みんなでメッセージやスタンプを送るんだ。そういう雰囲気はまだあるよ」
長きにわたる日本生活のなかで感じた嫌いな日本語
少し寂しそうに、でもどこか嬉しそうに話したエンゲルス氏は長きにわたる日本生活のなかで嫌いな日本語があるという。それは、この横浜フリューゲルス合併問題の時期に何度となく聞かれたものだった。
「頑張ってくれた人もいたし、今も滅茶苦茶悔しいと思ってくれている人もいる。でも、『しょうがないよ』って感じの人が多すぎた。初めて日本に来たとき、『しょうがない』って言葉をすぐに覚えた。だから、よく冗談みたいにして『しょうがないじゃねーよ』って返していたよね(笑)。これは絶対良くない。頑張ればなんとかなる。あまりいい言葉じゃないと思っているよ」
良くも悪くもスムーズな上意下達で、上の決定に対して諦めの早い日本企業的な舞台裏を経て失意のなか、それでも日本でキャリアを続けたエンゲルス氏は2004年、母国のカリスマが初めて監督を行うキャリアをコーチとしてサポートする機会を得る。それは、自身の指導者としての名声を大きく高めるものになった。
(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)