J強豪でベンチ外の日々、堪らず「公式戦に出たい」 新監督招聘も…1シーズンで出番たった3分【コラム】

鹿島一筋23年間のプロ生活を送った曽ケ端準【写真:産経新聞社】
鹿島一筋23年間のプロ生活を送った曽ケ端準【写真:産経新聞社】

鹿島一筋23年、曽ケ端準が辿ったプロキャリア回顧

 鹿島アントラーズ一筋23年間のプロ生活を送ったGK曽ケ端準は、Jリーグ史上最多となる連続試合出場の記録を持っている。

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 それは2007年10月20日、第29節のジュビロ磐田戦から始まり、2014年12月6日、最終節のサガン鳥栖戦まで続く244試合だ。しかも、すべてフル出場。その間、累積警告によって出場停止にリーチがかかったり、負傷のためにピッチに立つのが危ぶまれたりしたが、およそ7シーズンにわたり、一度たりとも、いや1分たりともその座を譲ることなく、鹿島のゴールを守り続けた。

 こうした偉大な功績1つとっても曽ケ端が、いかに代えのきかない鹿島の守護神であったかが分かるだろう。ゴール前に曽ケ端がいる。それがいつもの光景であり、それだけで安心感と安定感をチームにもたらした。

 連続出場記録が途切れたのは、2015年のJ開幕戦だった。アウェーでの清水エスパルス戦にスタメン起用されたのはGK佐藤昭大、曽ケ端はベンチに座った。淡々とした口調で、こう振り返っていたのが思い出される。

「自分の記録のためにプレーしているわけではないですし、連続記録というのはいつか終わるものだと思っていましたからね。実際、出場停止や怪我があったら、その段階で途切れていたわけで、周りが思うほど(連続記録に対して)特別な感情はありません。メンバーを決めるのは監督の仕事。それを受け入れていくだけです」

 前人未到の記録更新中を知ってか、知らずか、当時、指揮を執っていたブラジル人指揮官トニーニョ・セレーゾ監督は試合後の会見で、次のように語っていた。

「ソガ(曽ケ端)は今年36歳になります。(出場停止や怪我など)さまざまな理由から彼を起用できない時、“さて、困った”というような事態があってはいけない。トレーニングだけでは分からない面もあるので、どこかのタイミングで佐藤を実戦で起用したいと考えていました」

 監督のコメントを聞いていて「でも、今じゃなくてもいいのではないか」というクエスチョンマークが頭をかすめた。第2節以降、スタメン復帰の曽ケ端が10試合連続フル出場したこともあり、改めてその思いを強くした。

 翌2016シーズンはJリーグ全試合でプレーし、ベテラン健在を力強くアピール。17年にはGKクォン・スンテ(韓国代表)の加入に伴い、徐々に出場機会が減ったものの、引退までにJ通算533試合出場を果たした。鹿島史上最多出場の金字塔を打ち立てた守護神は、在籍23年間で17冠に貢献。その輝かしい功績によりクラブレジェンドの称号を得ている。

トルシエ体制下の代表チームに必ずと言っていいほど招集

 1998年に鹿島ユースからトップに昇格し、プロとして歩み始めた曽ケ端は、10代の頃から将来を嘱望されるGKの1人だった。

 当時、日本代表とともにオリンピック代表やユース代表の監督を兼務していたフィリップ・トルシエは、その潜在能力の高さに目をつけ、必ずと言っていいほど各代表チームの活動に招集していた。

 GKの3番手という位置づけだったため、アジア予選などを含め、試合出場の機会は限られていたものの、1999年のワールドユース、2000年のシドニーオリンピック、2002年の日韓ワールドカップと、トルシエ体制下での世界大会に帯同した唯一のGKとなっている(前者2大会はバックアップメンバーだが)。こうした事実からもトルシエ監督の期待のほどが窺えるだろう。

 プロとして駆け出しだった頃のGK曽ケ端に対する周囲の評価は、概ね次のようなものだった。

「全般的にGKとしてのスキルが高く、足もとのボール扱いも上手い。前線へのフィードが的確で、モダンなGKに求められる要素をたくさん持っている。足りないのは、トップレベルの実戦経験だけだろう」

 鹿島のユース時代を振り返れば、不動のGKとして試合に出るのが当たり前だった。だが、トップチームに昇格すると、ベンチ入りするどころか、ベンチ外になることも多かった。ベテラン、そして中堅と、経験豊富な先輩GKが揃う鹿島のなかで、第1GKの座を射止めるのは、やはり容易ではなかった。

 足りないのは、実戦経験――。そう評されていたが、その課題を克服するには試合に絡んでいかなければいけない。だが、出場チャンスは思うように巡ってこない。若き日のGK曽ケ端が葛藤のなかにいたであろうことは想像に難くない。

 当時、サテライトリーグ(いい換えればリザーブリーグ)が行われていて、そこでのプレーは重ねていたものの、さらなる成長のために喉から手が出るほど欲しいのは、より高いレベルでの実戦経験の機会だった。「1日も早く公式戦に出たい」という思いを胸にしつつ、「そのためにも普段の練習からアピールしていくことが大事」と日々精進を心掛けていた。

 改めて言うまでもなく、GKのポジションは1つだけである。出場停止や負傷など、交代を迫られない限り、そうそう入れ替わることはない。いつ訪れるか、分からない日に向かって、曽ケ端は準備を怠らなかった。

 待ちに待ったJリーグデビューは、1999年5月8日に富山で行われたアビスパ福岡戦だった。ファーストステージ(当時は2ステージ制)での優勝の可能性がほぼなくなったこともあり、若手に出場機会を与えようという首脳陣の意向によってチャンスが巡ってきた。

 アグレッシブに前に出ていく鹿島が終始、ゲームの主導権を握り、結果は3-0の快勝。攻め込まれる状況が少なかったため、GK曽ケ端としては腕の見せどころがなく、やや物足りない内容だったかもしれない。とはいえ、最初の一歩を記すことができた。

 ちなみに、富山といえば、プロ4年目を迎えていたFW柳沢敦の地元で、いわゆる凱旋試合として開催された鹿島の“ホームゲーム”だった(カシマスタジアムが2002年の日韓ワールドカップに向けて改修工事に入ったため、使用できなかった)。

若き日の地道な取り組みが実り、リーグ杯制覇に貢献

 19歳のGK曽ケ端は、福岡戦を含め、Jリーグ4試合連続フル出場を果たすも戦績は1勝3敗と、負け越した。この事実に真摯に向き合った。

「せっかくチャンスをもらったのにアピールしきれませんでした。どんな形であれ、チームの勝利に貢献することが重要だと思っていたので、それが果たせず、まだまだ自分の力不足を実感しました」(曽ケ端)

 プロ3年目の2000年は常時ベンチ入りするなど、GKとしての序列が着実に上がった。とはいえ、Jリーグでの出場はわずか2試合にとどまり、しかも、それぞれのプレー時間は公式記録上、試合終了間際の2分と1分にすぎなかった。

 同年、新監督として迎えられていたトニーニョ・セレーゾは若手の成長を心から願い、ありったけの情熱と愛情を注ぎ込むような指揮官だった。ただ時折、首を傾げたくなるような采配を振るうところもあり、そこが玉にキズというべきか、ご愛敬というべきか。

「私は日頃から必死にトレーニングする曽ケ端の姿を見ている。少しでもピッチに立つチャンスを与えたい」と指揮官は語っていたが、「それにしても短すぎるだろう」と、周りから突っ込む声が聞こえてきそうだった。

 当の曽ケ端本人も困惑していたに違いない。だが、ピッチに入るや否や、自陣ゴールに向かって一直線。試合再開に素早く備えようとする律儀な一面が見られた。

 こうした若き日の地道な取り組みが1つの結果として現れたのが、2000年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)だろう。第1GKの高桑大二朗が日本代表の一員として、レバノンで開催されたアジアカップに参加していたため、その穴を埋めるべく、ナビスコカップ準決勝のホーム&アウェー2試合と決勝で鹿島のゴールを守った。決勝当日前にGK高桑は帰国していたものの、曽ケ端がスタメン出場し、高桑は控えに回った。

 11月4日、川崎フロンターレと相まみえ、2-0で鹿島が勝利し、3年ぶり2度目のナビスコカップ制覇を果たす。「試合に出るだけではなく、やはりチームが勝たないと意味がない」とGK曽ケ端は常々、語っていたが「最後まで集中を切らさないように心掛けていました。無失点での勝利ですし、言うことはありません(笑)」と、自身が初めて直接的に絡んだタイトル獲得だけに喜びもひとしおだった。

 将来を嘱望された若手GKの突き上げが、加速していく。飛び石のような実戦経験を重ねつつ、そんななかで結果を残しつつ、プロとしてのキャリアを積み上げるGK曽ケ端が、ついにレギュラーの座を掴む。

 分岐点となったのは、翌2001年5月12日、アウェーでのコンサドーレ札幌戦だ。第1GKの高桑が負傷したために巡ってきた出場機会だが、その後、セカンドステージ最終節のサンフレッチェ広島戦を除き、トータル21試合にフルタイム出場。プロ4年目でキャリアハイの数字を記した。

 セカンドステージ制覇の鹿島は同年のJリーグチャンピオンシップに進出。宿敵・ジュビロ磐田を1勝1分で退け、年間チャンピオンに輝く。ホーム&アウェーの2試合でゴールを守ったのがGK曽ケ端だった。

 鹿島の新たな守護神の誕生を印象づけた。2002年から2シーズン、Jリーグ全試合にフル出場するなど、不動の地位を固めていく。

 足りないのは、実戦経験。そう評されてきた若きGKの姿は、もうない。J史上最多の244試合連続出場を記録したり、タイトル獲得に酔いしれる一方で、怪我のために長期離脱を余儀なくされたり、一発退場による出場停止を食らったり、悲喜こもごも、さまざまな経験を積み上げるまでになった。

 紛れもなく、それらすべてがGK曽ケ端の現役時代を形作っている。

(小室 功 / Isao Komuro)



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