“まずは3年”「ダメだったら大学に行く」 18年の充実キャリア…会社員との兼業も「後悔ほとんどない」【インタビュー】

下平匠氏が18年のキャリアを振り返った
ガンバ大阪のユースからトップチームに上がってプロデビューし、5クラブを渡り歩いて活躍した下平匠氏は、関東1部南葛SCでのプレーを最後にスパイクを脱いだ。エンジニアとして働きながらもピッチに立ち続けた36歳の左サイドバックが歩んだ18年のキャリアを振り返る。(取材・文=石川遼/全4回の1回目)
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5歳で初めてボールに触れ、G大阪のジュニアユースで育った。ユースからトップチームへ昇格してプロデビュー。西野朗監督が指揮を執り、MF遠藤保仁やMF明神智和など錚々たる顔ぶれが揃う青黒のクラブで選手としてのキャリアが始まった。
「僕がガンバのトップチームに入ったのが2007年。05年にJリーグチャンピオンになって、遠藤選手、明神選手、橋本(英郎)選手、二川(孝広)選手などものすごい選手がいるチームでした。ユース時代から何度か練習に参加させてもらっていたんですけど、その度に『この中で自分はやれるのか?』と感じていました。
根拠のない自信もあったんですけど、その時はまだ不安の方が少し勝ってるという感じ。でも、強化の方と面談をした時にトップチームに上げたいと言ってもらえて、自分の中で手応えはあまりなかったですけど、上がれるチャンスがあるならと。上がってダメだったとしても、もう3年ぐらいやって、それでもダメだったら大学に行ったりとか違う道でのやり直しがきくと思ってチャレンジしました」
“まずは3年”。そう目標を立てて飛び込んだプロの挑戦。1年目からリーグ戦で3試合に出場し、2年目の08年シーズンには15試合、3年目の09年シーズンには27試合と着実に出場機会を増やしていった。G大阪ではDF安田理大やDF高木和道、そしてDF藤春廣輝など日本代表経験のある選手らとのポジションを争う厳しい環境で研鑽を積んだ。
一番上手いと感じた名手の存在「僕の人生にとって財産」
アジア・チャンピオンズリーグ制覇や天皇杯で2度の優勝、クラブ・ワールドカップも経験した。まさに黄金期と呼べる当時のG大阪でキャリアをスタートさせられたことはかけがえのない経験として記憶されている。
「僕のなかで、一緒にプレーして一番うまいなと感じたのはやっぱりヤットさん(遠藤保仁)でした。そのヤットさんも含めて、あれほどすごい選手たちのなかで若い時期にサッカーができて、タイトルも獲れたのは僕の人生にとって財産。本当にラッキーだったと思います」
2012年には5シーズン過ごしたG大阪を離れ、大宮アルディージャへ移籍。1年目にリーグ戦全34試合に先発出場するなど絶対的なレギュラーに定着した。14年には横浜F・マリノスへ渡り、J1でも指折りの左サイドバックへと成長を遂げていく。
しかし、横浜FMでの終盤には怪我に泣かされた。「治ってからすぐ試合出て、またちょっと痛くなってみたいな感じで。そこからは治りかけで、繰り返しみたいな感じ」。16年に肉離れによる10か月の長期離脱を強いられると、以降はほとんど出番を得られなかった。
18年シーズン途中に期限付き移籍でジェフユナイテッド市原・千葉に加入。キャリア初となるJ2でのプレーだった。翌年には完全移籍となり、千葉では合計3シーズンでリーグ戦59試合に出場した。
2021年には当時関東2部リーグに昇格したばかりの南葛SCへ。32歳で、ついにJリーグのカテゴリから離れてプレーすることになった。J2クラブからのオファーもあったが、「練習に参加して、選手たちが純粋に楽しんでプレーしている姿を見ていたら、Jリーグにこだわる必要はないんじゃないか」と感じ、南葛SCへ加入を決意。加入後は一般企業に就職し、エンジニアとして働きながらサッカーと向き合っていった。
充実キャリアも心残りなこと
そして、2024年11月、南葛SCが目指すJリーグ入りまでの道のりの途中ではあったが、現役引退を発表した。「引退してからボールを蹴ったのは数えるほど。完全に運動不足ですね(笑)」。18歳から身を置いたプロの世界を離れ、次のシーズンに向けて身体を作る必要はなくなった。「南葛での最後は午前中に練習をして、午後は仕事という感じだったのが、今では朝から仕事に行っています」。スケジュールからサッカーがなくなった今は、夜に時間を持て余すようになった。
「ガンバを出てからはタイトルを一つも獲れなかった。それは少し心残りかなっていうのはあるんですけど、プロになった時の目標が“まず3年間やって試合に出る”というところでした。ちょこちょこ試合に出られるようになって、次はサッカー選手が引退する平均年齢の26歳くらいまで頑張ってやろうってなって、最後は漠然と35歳までやりたいなって。そうやって目標をコツコツとクリアしていくのが自分には合っていたと思うんです。最後には風間(八宏/南葛SC監督)さんとボールを大事に扱うサッカーを一緒にやらせてもらえて、自分の能力的には上出来だったなって思います。だから本当に、現役生活に後悔はほとんどないですね」
“まずは3年”という控えめな目標から始まったサッカー人生。ピッチサイドを駆け続けた男は、18年に及ぶ選手生活に未練は残さなかった。

下平匠氏が最近始めた大人のサッカースクール「After Party Football Club」
(石川 遼 / Ryo Ishikawa)