電車通勤、立ち食いそば屋通いの「庶民派」 元バルサの“小さな巨人”はなぜ日本へ?【コラム】

キャリア晩年に浦和でプレーしたアイトール・ベギリスタイン 【写真:産経新聞社】
キャリア晩年に浦和でプレーしたアイトール・ベギリスタイン 【写真:産経新聞社】

4度のラ・リーガ優勝にCL制覇…ベギリスタイン来日の影にサリナスの助言

 イングランド・プレミアリーグの愛好家がアイトール・ベギリスタインの名を聞いたなら、すぐにマンチェスター・シティのすご腕ディレクターを思い浮かべるはずだ。

【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!

 2012年秋に就任すると昨季までの12シーズンに国内リーグを7度制したほか、欧州チャンピオンズリーグ(CL)やクラブワールドカップ(W杯)など数々のタイトルを獲得。イングランドを代表する名門にのし上げた人物である。

 バルセロナ(スペイン)やバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)で数え切れないほどの栄誉に浴してきた名将、ジョゼップ・グアルディオラ監督を16年に招請し、常勝クラブへ導いたのもベギリスタインの功績だ。

 現在60歳。残念ながら、7月のクラブW杯終了後に退任することが決まっている。

 現役時代はスペイン代表FWとして、1994年のW杯米国大会などに出場。バルセロナでは4度の国内リーグ優勝に欧州チャンピオンズカップ(現CL)制覇も成し遂げている。

 70年代のオランダのスーパースター、ヨハン・クライフが88年から指揮を執ったバルセロナは「ドリームチーム」と呼ばれて称賛されたが、ベギリスタインはこのチームの“一期生”でもある。

 Jリーグでプレーした「ドリームチーム」の選手と言えばフリオ・サリナス、アンドニ・ゴイコエチェア(ともに横浜F・マリノス)、ゲーリー・リネカー(名古屋グランパス)、ミカエル・ラウドルップ(ヴィッセル神戸)、フリスト・ストイチコフ(柏レイソル)も含めた6人。だが現役引退後、フロント職でこれだけの成果を上げたのはベギリスタインだけだろう。

 スペイン1部リーグのレアル・ソシエダ、バルセロナ、デポルティボ・ラコルーニャの3クラブに所属し、通算453試合で90得点という偉大な記録を残した。

171センチと小柄なアタッカーの愛称は“チキ”

 ベギリスタインがキャリアの締めくくりに選んだのが浦和レッズで、梅雨明け前の1997年7月に来日すると、2日後の12日には敵地まで出向いて京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)とのリーグ戦を視察。「これからプレーするチームを自分の目で見ておきたかった。守備ラインは組織的でよく整備されている」と第一印象を口にし、「福田(正博)や岡野(雅行)のスピードに合わせてパスを出したい」と早くも自らの役どころを押さえていた。

 愛称は“チキ”(Txiki)。バスク語で小さいという意味だが、確かに171センチと小柄なアタッカーだった。スペインのバスク地方というのは逸材を多数輩出することで知られ、W杯に3度出場した盟友で2つ年上のサリナスも同郷だ。

 それまで浦和の外国人選手はアルゼンチン、ペルー、ドイツ、チェコスロバキア、韓国、ブラジル、フランス、デンマーク、オーストリアと多彩だったが、スペイン人の加入はチキが初めてだった。デポルティボ・ラコルーニャとの契約満了後、メキシコと米国のクラブからも獲得の申し出があった。

 しかしチキは「メキシコは家族と暮らすには治安面で少し不安だったし、アメリカはリーグ機構そのものが不安定なので断った」と語り、開幕1年目の93年からW杯出場歴のある各国の名手が次々と加入したJリーグを選んだ。

 腹を決めた一番の理由は、サリナスの助言だったという。

「浦和からオファーをもらったらすぐに親友のサリナスと連絡を取り、浦和というチームやJリーグのこと、日本がどんな国なのかを説明してもらったんだ」

 スポルティング・ヒホン(スペイン)から横浜FMに移籍したサリナスは、チキよりひと足早く来日し、97年5月にJリーグにデビューしている。「浦和は強いチームで、ものすごく情熱的なサポーターがいると教えてくれた。これが大きい。私はレアル・ソシエダでプロ選手になったが、ここのサポーターも熱い応援をしてくれた。バルセロナのように10万人規模でなくても、そういう人々の存在が選手のやる気を引き起こすものだ」と早口に説明。さらに「食事はおいしく、環境も良くて日本はすごく住みやすいとサリナスは話してくれた」と言葉をつないだ。

 ただ、梅雨時の蒸し暑さにはほとほと参ったようで、「この暑さに慣れるまでにはかなり時間が掛かると思う。家族が日本の生活に早くなじめるかも不安だ」と付け加えた。

97年にJリーグデビュー…練習場まで電車通勤

 97年7月30日、先発したジェフユナイテッド市原との第2ステージ開幕戦でJリーグデビュー。サリナスと初対決した3日後の横浜FM戦ではPKを奪って先取点を呼び込み、その10分後に利き足の左で初得点を挙げ2-0の勝利に貢献した。

 トップ下を任された1年目は、公式戦19試合に出場して4得点。翌年は天才児・小野伸二の加入により、最も得意とする左の2列目で小野、ゼリコ・ペトロビッチとともに攻撃陣をリードし、第2ステージで3位に躍進する原動力となった。

 都内から浦和市の練習場まで電車通勤する珍しいJリーガーだった。JR埼京線で恵比寿から赤羽を経由し、京浜東北線に乗り換えて与野で下車。ここから練習場に通った。「渋滞に遭うのが嫌だから」と車を運転せず、「電車でいろんな人を観察するのが楽しい」と笑いながら話した。

 赤羽駅のホームにある立ち食いそば屋に寄るのが日課で、お気に入りの天玉うどんをすすった。98年7月に加入したジュゼッペ・ザッペッラとは通勤仲間となり、ふたりでそば屋に出入りしたものだ。

 温厚篤実な人柄である。練習後はファンサービスに応じ、名前を呼ばれれば手を上げて笑顔を振りまいた。シーズン終わりには支援者への謝意を忘れず、「浦和に来て何より嬉しかったのがサポーターの存在で、どの試合でもすごい応援だった。浦和というクラブはあの熱烈なサポーターとともにある」と述べた。

 チームのJ2陥落が決まった99年の最終戦をもって17年にわたるキャリアに終止符を打ち、スペインに帰国した。98年と99年前半の監督だった原博実さんがチキを頼ってスペインを尋ねると、特にバスク地方での人気に驚いたそうだ。「英雄だよね。選手としても人としても尊敬されていることがよく分かった」と感心しきりだった。

「ドリームチーム」の小さな巨人は、日本でも祖国でも庶民的な人柄で地域の人々に愛された。

page1 page2

河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング