2か月悩んだ欧州→J復帰 キャリア全盛期…27歳ドリブラーが下した決断「考えないように」【インタビュー】

金子拓郎の身近にあった浦和というチームの存在
浦和レッズに今季の新戦力として、ベルギー1部コルトレイクからMF金子拓郎が加入した。クラブの地元である埼玉県のなかで、和紙の生産で有名な小川町出身の彼にとって幼少期から浦和はどのような存在と映っていたのか。もとより、27歳とキャリアの最盛期にあたる年代でヨーロッパから日本へと戻る決断は簡単なものではなかったという。(取材・文=轡田哲朗/全6回の2回目)
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「特別Jリーグをめちゃくちゃ好きだったわけでもないですけど、浦和レッズはもちろん知っていましたし、テレビ埼玉でも普通に流れていたので子供の頃にも見ていました」という金子。1997年7月生まれの彼にとって、小学生年代の2003年頃からは浦和が第一次黄金期を迎え、毎年のようにタイトルを獲得していた時期だった。当時は地元ローカル局での試合中継も多かっただけに「小さい頃だったので当時はワシントン選手、田中達也選手ですね。(田中マルクス)闘莉王選手、阿部勇樹選手も」と、スター選手たちの存在が心に残っているという。
それに加え「あと、ハートフルクラブに通っていたんですよ。小学校3年か4年だったんですけど、それは正直なところ親に行かされていました。でも友達もできたし、浦和のウェアも着るので『かっこいいなあ』と思いながらやってましたね」と、浦和が地域貢献活動の一環として、ボール扱いなどの技術というよりもサッカーを通じて楽しさや仲間の大切さなど思いやりを伝える活動を重視したスクール活動にも参加していたのだと話した。
そして「スタジアムにも1回行きましたよ。バルセロナとの国際親善試合を見に行ったんですよ。学校を早退して、友達やその家族と行ったなあ。ロナウジーニョがめっちゃ好きで楽しみに行ったんですけど、出なかったんですよ」と笑った。この、さいたまシティカップが行われたのは2005年6月のことだから、金子少年が7歳の時だった。

欧州移籍からJリーグ復帰まで
そんな金子は、群馬県の強豪である前橋育英高校に進学したため、中学卒業と同時に埼玉を離れた。その後は日本大学へ進学し、在学中の特別指定登録を経て北海道コンサドーレ札幌へ入団する。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下で力を伸ばした金子は、2023年夏にクロアチアのディナモ・ザグレブへ移籍すると、1年後にベルギー1部コルトレイクへ。それから半年が経ったタイミングで浦和への移籍が決まった。
20代後半のキャリアで最もいい時期であり、欧州で出場機会に苦しんでいたわけでもない。「もちろん、5大リーグに行く目標を持ってヨーロッパでやっていました」というなかでJリーグからのオファーに心を動かされた理由は何だったのだろうか。
「めちゃくちゃ難しかったですね。結構、早めの段階で浦和からオファーをいただいて、このタイミングで日本に戻るというのを全く考えていないなかで、またオファーをいただいて。本当に、2か月以上はずっと悩みましたね。オファーをもらった時は、あっちで高嶺に相談もしていたんですけど、最後に自分で決めるまではめちゃくちゃ悩みました」
札幌時代のチームメートであるMF高嶺朋樹は、コルトレイクでもチームメートだった。彼もまた今季に向け札幌への復帰となる完全移籍が発表されたが、金子は「今は普通に話せますけど、その時の心境は本当に悩みましたよ」と、昨年11月から12月頃の時期について話す。

決断の理由「強化部の方々の熱意もありがたいこと」
決断は、ある時に何かのきっかけでスパッと決まったのか、それとも徐々に気持ちが傾いたのか。そう問いかけると「難しいなあ」と苦笑した金子だが、「やっぱり、だらだら長引かせるのも良くないと思って考えるなかで、だんだんという感じですね」と話した。それは、天秤の針が左右に振れながら、少しずつ片方への動きを強めていくようなものだったのだという。
「最後に『浦和へ行かせていただきます』と言ってからは、もうスッキリして悩むこともなく、心のモヤモヤも全くないです。色々な決め手や要素があって、もし残っていたらという話をしても意味がないし、考えないようにしています。時期としては12月の半ばくらいに決めました。(浦和から)オファーもいただきましたし、結構ずっと気にしてくださって。強化部の方々の熱意も選手にとって重要な部分でもあるし本当にありがたいことなので、それも決め手になりましたね」
自身のキャリアの中でも最大級の決断になったと言えそうな数か月を経て、金子は小学生以来で浦和のウェアに身を通すことを決めた。決断してからスッキリしているという言葉の通り、その姿には何の迷いや未練も感じられない。そして、欧州行きや浦和から複数回のオファーが届く高評価を得るキッカケになった成長は、浦和で指揮を執ったこともあるミハイロ・ペトロヴィッチ監督の指導を札幌で受けた時期にもあったという。(第3回へ続く)
[プロフィール]
金子拓郎(かねこ・たくろう)/1997年7月30日生まれ、埼玉県出身。前橋育英―日本大学―札幌―ディナモ・ザグレブ(クロアチア/期限付き)―コルトレイク(ベルギー)―浦和。23年には札幌で半年間の在籍ながらJ1ドリブル総数で1位(156回)を記録。ザグレブ時代にUEFAカンファレンスリーグで8試合2得点。25年に地元クラブである浦和に完全移籍し、Jリーグに復帰した。
(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)