父の会社倒産…生活苦も後押し「練習参加してみるか」 電話口で伝えた「プロになれたよ」【インタビュー】
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今季でプロ12年目…清水エスパルスDF高橋祐治の半生
清水エスパルスのDF高橋祐治は、今季でプロ14年目を迎える。キャリアの半生を紐解くと、さまざまな分岐点があった。2002年の日韓ワールドカップを観て、サッカーにのめり込んだ小学生時代、父親の会社が倒産し、生活は困窮。「サッカーを習いたい」と言い出せずにいたある日、父から告げられた一言から一気に道が開けた。本格的にサッカーを始め、夢のプロ入りを掴むまでを振り返る。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・橋本 啓/全2回の1回目)
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滋賀県大津市出身の高橋は、日本人の父とフィリピン人の母との間に生まれ、4人兄弟姉妹の末っ子。洋楽を好む父の影響で、幼少期を過ごした家にはギターやドラムといった楽器が並んでいた。そんな家庭環境だったがゆえに、物心ついた頃からの夢はプロのドラマーになること。サッカーとは全く無縁だった。
転機が訪れたのは、小学校3年生の頃。21世紀に入って初となるFIFAワールドカップが、日韓共催で行われた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした祭典をテレビで見て、夢中になった。体育の授業でもサッカーが始まり、シュートを決めて得点を奪う感覚が堪らなく「面白い」と、虜になった。
そこからどっぷりハマった。朝早くに学校に行っては友だちとサッカーをし、昼休みや放課後も、時間がある限りボールを蹴り続けた。家の近所でもサッカーに明け暮れ、気付けばボールはボロボロに。「サッカースクールで習いたい」。当時の高橋にはそんな思いが芽生えていたが、親に言い出せない事情があった。
小学3年の時、父親の会社が倒産。日々の生活は経済的に苦しかった。住んでいた家を売却し、幼少期に触れたギターやドラムも資金捻出のために姿を消した。「サッカーを習いたいと、言い出せずというか、言えるような状況ではなかったので、ひたすら家の前の壁にボールを蹴っていました」。住んでいた場所から山を下った小学校にあった少年団に通うのは、そうした事情からためらった。
サッカーが好きで、来る日も来る日もひたすらボールを蹴り続ける。そんな日々を送っていた小学校4年のある日、父親から思いがけない一言を言われた。「そんだけ好きなんやったら1回練習参加してみるか」。経済的に苦しいのは分かっていた。それでも、我が子を思い、大好きなサッカーに接する機会を作ろうとしてくれたその言葉が嬉しく、迷わず頷いた。
少年団入り後、技術は上達しサッカー漬けの日々へ
「練習参加に行かせてもらったら、めちゃくちゃ楽しくて。自分で言うのもなんですが実際、周りに比べてずば抜けてたと思うんですよね。多分、それを親が見て『やらせたほうがいいのかな』ってなったんだと思います」。高橋は藤尾小学校にある藤尾サッカースポーツ少年団に入団。技術はみるみるうちに上達し、小学校5年になると、母親の知り合いから紹介され、プロ選手を多数輩出する京都紫光サッカークラブへの練習参加に誘われた。
藤尾スポーツ少年団よりもレベルが上がる京都紫光クラブでは、周りの上手さに圧倒された。それでも高橋の実力は抜けていた。当時の監督から「是非入ってほしい」とオファーを受け、紫光クラブへ。そこからはサッカー漬けの日々が始まる。
「クラブの方針でもあるんですけど、親の力を借りずに自分の力でやり切るスタンスだったので、公共交通機関を使って滋賀から練習グラウンドがある京都の嵐山まで通ってました。学校が終わって、そのまま目の前のバス停からバスに乗って、電車を乗り継いで1時間半ぐらいですかね。帰りだけは最寄り駅に親が迎えに来てくれるんですけど、家に帰ってくるのが21時、22時とかっていうのが当たり前でした」
紫光クラブでの2年間で、充実感に浸った。プロへの憧れはなく、ただ漠然とサッカーを続けていきたいと思っていた小学校6年生の時、全国大会のミーティングである報告を告げられた。「その当時の監督に全員の前で『ユウジが京都サンガからオファー来てる』って言われて。最初どれだけ凄いことなのかよく分からなかったんですけどね。あとから詳しく聞いて嬉しかったのを覚えてます」と高橋。笑みを浮かべ、当時を思い返した。
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ユース昇格で芽生えたプロへの意識「親に恩を返そう」
京都ジュニアユースに入ると、当初は出番に恵まれなかった。小学校から主戦場としてきたフォワードで勝負をさせてもらえず、中学2年になると監督からセンターバックへの転向を宣告され、嫌気が差し始める。CBでの練習はとにかく嫌で嫌で仕方なく、ついには親に「辞めたい」と告げたこともあった。
当時の高橋は「なぜCBなんだ」という感情が先行していた一方で、冷静になってみると「逃げに過ぎない」という情けなさも抱いた。チャンスがあるならばやり遂げる。そう決意を新たにした中学3年時、CBで出番を掴み始めると、再びサッカーへの楽しさを取り戻した。そこで届いたのが、京都ユース昇格のオファー。漠然とサッカーをしてきた高橋に、プロへの意識が芽生えた。
「中学校3年生の時、京都ユースからオファーが来たんですけど、正直、僕はその当時、高校サッカーに魅力を感じていて、滋賀県には野洲高校っていう強豪校もありましたし、そこ行きたいって思っていたんです。でもその時に、親に初めて進路のことについて言われて『サンガに上がったほうがいいんちゃう』って。
高体連行ったら行ったで結局お金はかかるし、京都ユースに入れば提携する立命館宇治高等に入って学費免除になるんですよね。経済的なところで親に恩返しができるなっていうところはあったので、サンガユースでプロを目指して小さい頃から自分の人生を応援してくれた親にその恩を返そうと決めたんです」
高校での3年間、プロ入りの夢を叶えるべくサッカーにすべてを捧げた。年代別代表にも選ばれ、U-18のキャプテンを担うほどに。そして2012年、トップチーム昇格の吉報を掴んだ。
「常に『プロ上がれへんかったらどうしよう』っていうのはありましたけど、実際決まってほっとしたというか、その時に親に初めて『プロになれたよ』って電話口で伝えた時に泣いて喜んでくれたので、良かったかなと思います」。
小学校4年の時、父親から「練習参加してみるか」の声から始まった本格的なサッカー人生。夢をサポートしてくれた両親にようやく恩返しができた。(後編に続く)
(FOOTBALL ZONE編集部・橋本 啓 / Akira Hashimoto)