“8番”の男たちが紡いだ絆 「逆にどこでやんねん」…“異例会見”を実現させた社長の心意気【コラム】

森島寛晃社長と柿谷曜一朗【写真:産経新聞社】
森島寛晃社長と柿谷曜一朗【写真:産経新聞社】

古巣本拠地で行われた異例の引退会見

 19年間に及ぶロサッカー人生に幕を降ろした柿谷曜一朗。その引退会見は最後の所属クラブとなったJ2の徳島ヴォルティスではなく、今も特別な思いを抱く古巣セレッソ大阪の本拠地ヨドコウ桜スタジアムで行われた。異例の形態を生み出した、伝統の「8番」を紡いだ男たちの絆に追った。(取材・文=藤江直人)

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 気がつけば涙が頬を伝っていた。大勢のメディアが駆けつけ、複数のテレビカメラが回り、クラブの公式インスタグラムでもライブ配信されている状況を照れくさく感じたのか。現役引退会見を終えた主役に花束を贈呈した、セレッソ大阪の森島寛晃社長は柿谷曜一朗へのメッセージの途中で自分に突っ込みを入れた。

「何で俺が泣いてるねん……」

 森島社長が柿谷へ花束を贈るのは2度目となる。最初は2014年7月15日。キンチョウスタジアム(現・ヨドコウ桜スタジアム)で行われた川崎フロンターレ戦後に、スイスのバーゼルへ移籍する柿谷の壮行セレモニーで、当時はセレッソのアンバサダーを務めていた森島氏が花束贈呈役を務めた。

 2度目はJ2の徳島ヴォルティスでプレーした昨シーズン限りでの現役引退を、柿谷が電撃的に発表した5日後の1月23日。最後の所属クラブである徳島ではなく、通算で11年間プレーした愛着深い古巣、セレッソの本拠地ヨドコウ桜スタジアムで引退会見を実施する計画が持ち上がったのは1月16日だった。

 動いたのは柿谷。セレッソの森島社長、宮島武志副社長らを訪ね、現役引退を伝えるとともに記者会見をセレッソで行いたいと打診し、緊急ミーティングのなかでわずか1週間後の開催が決まった。

「無茶なお願いを快く聞いてくださり、僕のためにいろいろと準備していただきありがとうございます」

 会見の冒頭で柿谷はセレッソに感謝の思いを語った。セレッソ側はどのように受け止めていたのか。もちろん驚いたが、それ以上にうれしかったと森島社長は心境を明かした。

「選手としてプレーする姿をまだまだ見たい、と思いもありました。そのなかで最後はサッカーを始めたクラブに戻って会見をしたいと言われたときに、今もセレッソを大事にしてくれている、という曜一朗の気持ちが強く伝わってきました。だからこそ、何とかいい形で送り出してあげられたらと」

引退会見では言葉に詰まる場面も【写真:FOOTBALL ZONE編集部】
引退会見では言葉に詰まる場面も【写真:FOOTBALL ZONE編集部】

4代目の「8番」拝命までのドラマ

 迎えた引退会見。森島社長は涙した自分を恥ずかしがる前に「サッカー界からまた一人、ワクワクする選手がいなくなるのを非常に寂しく思います」と語り、涙をぬぐったあとにはこう続けている。

「ワクワクもさせられましたけども、ハラハラも大変ありました。いろいろな思いが蘇ってきます」

 森島社長は前身である日本リーグのヤンマーディーゼル時代からセレッソひと筋でプレーし、36歳だった2008シーズン限りで現役を引退した。2度のJ2降格を喫しても残留した生き様はいつしか「ミスターセレッソ」と呼ばれ、背負い続けた「8番」はセレッソのエースの証として受け継がれるようになった。

 日本代表としてW杯に2度出場した森島氏は、セレッソのホーム・長居スタジアムで行われた、チュニジア代表との2002年日韓大会グループリーグ最終戦で先制ゴールをゲット。日本を史上初の決勝トーナメント進出に導いた勇姿を、セレッソの下部組織に所属していた12歳の柿谷はスタンドで観戦していた。

 もっとも、憧憬の念を抱いた森島氏の象徴だった「8番」を受け継ぐまでには紆余曲折があった。2009シーズンから「8番」は柿谷と同期入団の香川真司に託され、香川がボルシア・ドルトムントへ移籍した2010年夏以降は1年半にわたって欠番となり、2012シーズンからは清武弘嗣が3代目を継承した。

 対照的に練習への遅刻を繰り返すなど、ピッチ外での素行の悪さが目立ちはじめた柿谷は、2009年夏から2年半にわたって徳島へ期限付き移籍。引退会見では「若いときは正直、本当に問題児で」と自虐的に振り返った。

 徳島では美濃部直彦監督の厳しい指導や、先輩選手たちのフォローもあってメンタル面が徐々に変化。復帰を果たした2012シーズンには、序盤のスーパーサブからポジションを掴み、最終的にはチーム最多の11ゴールをマーク。オフにはドイツ1部のニュルンベルクからオファーが届いた。

 移籍をほぼ決めていた柿谷は、森島氏の自宅に招かれた日に残留を即決している。清武のニュルンベルク移籍後に再び欠番となっていた「8番」を継承してほしい、と要請された瞬間の心境を後にこう語った。

「森島さんから『つけてくれ』と言われたときには、本当に泣きそうになるくらい感動しました」

 4代目の「8番」を拝命した2013シーズンは、リーグ3位となる21ゴールと大ブレーク。オフにはドルトムントやセリエAのフィオレンティーナからオファーが届くも、柿谷は再び断りを入れた。理由は2014年に開催されたW杯ブラジル大会にある。当時の柿谷はこんな言葉を残していた。

「セレッソ出身の選手としてではなく、セレッソの所属選手としてW杯に出場したかった」

 セレッソ所属として2002年大会を戦い、ゴールも決めた森島氏の背中を追いたい。誓いどおりに代表入りを果たした柿谷だったが、ともに途中出場だったコートジボワール、コロンビア両代表とのグループリーグでは無得点。力不足を痛感した柿谷は海外移籍を決意し、オファーを受けたバーゼルの一員になった。

2016シーズンにJ1昇格を勝ち取った【写真:Getty Images】
2016シーズンにJ1昇格を勝ち取った【写真:Getty Images】

「曜一朗たちがセレッソというクラブを大きくしてくれた」

 しかし、セレッソがJ2を戦った2016シーズン。復帰要請に応え、バーゼルとの契約を2年半残して帰ってきた柿谷を待っていたのは、キャプテンの大役と自身の移籍後は欠番となっていた「8番」だった。

 柿谷の決意と覚悟は同シーズンの最終戦で結実する。冷たい雨が降るキンチョウスタジアムで行われたJ1昇格プレーオフ決勝。満身創痍の状態でフル出場し、ファジアーノ岡山を1-0で振り切った直後に人目もはばからずに号泣した柿谷は、執念でもぎ取った勝利を引退会見で誇らしげに振り返った。

「ホンマにめちゃくちゃ覚えていますよ。あそこで勝って(J1に)上がれて、今があると思っています」

 同年に創設されたチーム統括部入りしていた森島氏も、柿谷の涙に胸を打たれた。2020年12月には社長として、出場機会を求めて名古屋グランパスへの完全移籍を決めた柿谷を見送った。別々の道を歩みはじめてから4年あまり。意を決した柿谷の訪問とともに、セレッソの「8番」を背負った男たちの思いが再び交わった。

「ここでやる以外、逆にどこでやんねん、というのが僕の感覚でした。お願いして良かったです」

 ホテルではなくセレッソの本拠地内のスペースを舞台とした、異例とも言える引退会見に柿谷が無邪気な笑顔を浮かべれば、森島社長は第3期リニューアル工事を終えた2021年を境に完全ホームスタジアム化し、名称もキンチョウスタジアムからヨドコウ桜スタジアムに変わった経緯を踏まえながらこう語った。

「(隣接する)ヤンマースタジアム長居という選択肢もありましたけど、曜一朗たちがセレッソというクラブを大きくしてくれたからこそ、今はこのスタジアムで戦えている。曜一朗は『ヨドコウになってからは、あまりプレーしていない』と言っていましたけど、だからこそここで会見ができて、送り出せて良かった」

 柿谷は自身の引退試合を大阪ダービーの形で行いたいと胸中に秘めるプランを明かし、森島社長も「身体が動くうちにいい形になれば」と目を細めた。再び絆を深め合うかつての持ち主たちの笑顔を、5代目の乾貴士を経て再び香川のもとに戻っている伝統の「8番」も、うれしそうに見つめている。

(藤江直人 / Fujie Naoto)



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藤江直人

ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。

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