小野伸二に言われた「パスを出してくれなかった」 小柄ドリブラーを大成させた“金言”【コラム】

浦和時代の田中達也【写真:Getty Images】
浦和時代の田中達也【写真:Getty Images】

浦和に加入した田中達也の“ルックアップ”

 まだ海外サッカーが身近でなかった半世紀以上前、東京12チャンネル(現テレビ東京)で「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組を放映し、イングランドや西ドイツの国内リーグ、ワールドカップなどを紹介していた。名手のプレーが目に焼き付いたように、サッカー実況の草分けだった金子勝彦さんの名調子もまた、印象深く耳に残ったものだ。

【PR】DAZNを半額で視聴可能な学生向け「ABEMA de DAZN 学割プラン」が新登場!

 金子さんの独特な語り口のひとつに「ルックアップから前方の(ケビン・)キーガンにフィード」というものがあった。顔を上げて周囲の状況を確認するルックアップという言葉をよくお使いになった。

 2001年、東京・帝京高の小柄なドリブラー田中達也が浦和レッズに加入した。この人にとってルックアップこそ、ドリブルの妙手へ到達させてくれた“恩人”でもある。

 カミソリのように切れ味鋭いドリブルが持ち味で、高校1年の秋の全国高校サッカー選手権東京予選からレギュラーとなり、本大会では準優勝している。背番号10を付けた翌年は、全国高校選手権準々決勝で鹿児島実業に1-2で逆転負けしたが、浦和の落合弘スカウト担当チーフは、この1試合を観戦しただけで田中にほれ込んでしまった。

 視察の目当ては鹿児島実の大型FW田原豊だったのだが、本命を田中に切り替えて獲得に乗り出した。

「緩急をつけたキレキレのドリブルと一瞬で相手を抜き去るスピードに驚いたし、あの試合の先制点とドリブルもすごかった。帝京にあんな素晴らしい選手がいたとは……」

 優勢が伝えられたFC東京との競合を制し、田中は浦和に入った。

 2001年というのは、クラブが初めてブラジル体制を導入した年でもある。指揮官はチッタ監督で、かのジーコとともにフラメンゴの一員として1981年のトヨタカップ(現クラブワールドカップ)を制した元ブラジル代表MFだ。

 チッタ監督は、小気味よくボールを運んで敵のマークをはがす田中の打開力に魅力を感じていた。4月18日、モンテディオ山形とのナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で公式戦デビュー。後半21分に送り込まれると39分、軽業師のような仕掛けに戸惑った太田雅之がたまらず反則で止めPKを獲得した。太田は2度目の警告で退場し、浦和に3点目が入って完勝となる。

小野のラストマッチ…新人に放った言葉「もっと周りを見てプレーしないと」

「ドリブルで1人、2人かわしてチームを盛り上げたかった」と試合を振り返る田中。指揮官は「いいプレーをしてくれて大満足だ。将来のある選手なので、これから大事に育てたい」とニンマリした。

 J1初出場の4月29日の鹿島アントラーズ戦で早速アシストし、5月6日の東京ヴェルディ戦の後半ロスタイムには、ドニゼッチの右クロスを合わせて初得点をマークする。

 7月21日のサンフレッチェ広島との第1ステージ最終戦は、田中が「ずっとあこがれの存在だった」と敬慕する小野伸二の浦和でのラストマッチだ。翌日には、関西国際空港から移籍先のフェイエノールトがあるオランダへ渡った。

 小野は前節から「送別会なので点を取ってほしかった」と言うチッタ監督の時宜を得た配慮もあり、FWで起用されていた。

 浦和は前半24分、永井雄一郎が小野のパスを決めて先制する。後半14分から登場した田中はその7分後、小野の左クロスを蹴り込んで決勝点を奪い、33分にはまたも小野の優しいパスから初の1試合2得点を記録。「2点ともパスが良くて楽しくプレーできた」と相好を崩す。

 ところがゴールを挙げ、有終の美を飾りたかった小野にしてみたら対極の心境だ。小野にパスを出せば2、3度得点チャンスがあったのに田中は自分のドリブルに心酔し、ゴールを目指してしゃにむに突進するばかり。「先輩を立てなきゃ駄目ですよね。僕があれだけフリーになっていたのに、達也は全然パスを出してくれなかった」と苦笑し、「ドリブルばかりじゃなく、もっと周りを見てプレーしないといけない。そう伝えておいて下さい」と小野は新人の将来を慮った。

 顔を下げてドリブルする習慣が抜けないため、仲間がいいポジションにいても絶好球を配給できず、好機をみすみす手放してしまうことしばしばだった。

 2002年、浦和にとっては恩人のハンス・オフト監督が着任すると、「今のままではシュートもパスもうまくならないが、下を向きっ放しの癖を直せばあのドリブルはもっと大きな武器になる」と当時、練習場に日参していた私に言った。小野が抱いた所感と全く同じだ。

田中にとって恩師に…オフト監督が繰り返した「ルックアップ」

 オフト監督が甲高い指笛を吹き、「タツヤ、ルックアップ」と発するたび、金子さんの実況がライブのごとくよみがえった。指揮官は小野の勧告を引き継ぐかのように辛抱強く、「ルックアップ」を唱え続け、「顔を上げろ」と指導し続けたのだ。

 晩夏から先発の機会が増え、翌2003年の盛夏にはレギュラーに定着した。当代きってのスピードスター、エメルソンと編成した2トップは猛威を振るい、相手DFをきりきり舞いさせた。クラブ初タイトルのナビスコ杯では、MVPとニューヒーロー賞を同時受賞した第1号となる。

 2004年アテネ五輪アジア最終予選ではFWの主軸に成長し、本大会でもメンバー入り。2005年7月の東アジア選手権で日本代表にデビューし、2010年南アフリカ・ワールドカップのアジア予選ではエースとして存在感を示した。2009年4月に筋肉系の怪我を負い、これ以降の予選と本戦出場はかなわなかったが、ルックアップによって埋もれていた才能が大きく開花したのだ。

「顔を上げろ、顔を上げろと口酸っぱく注意されてから、周りをしっかり見ながらドリブルし、ヘッドダウンするのは最後に勝負する局面だけになりました。オフトさんに出会わなかったら、自分のキャリアは長続きしなかったと思う」

 アルビレックス新潟の公式サイトには選手を詳報するページがある。田中は新潟での現役時代、影響を受けた指導者というQ&Aに対し、オフト監督の名を挙げていた。

 小野の金言で始まり、腕っこきのオフト監督の施術によって田中は大成した。すべての懸け橋になったのがルックアップだった。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



page 1/1

河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

今、あなたにオススメ

トレンド

ランキング