浦和で起きた”GK冷戦” 「会話なんかなかった」…語り継がれる熾烈な守護神争いの真相【コラム】

(左から)都築龍太と山岸範宏のGK争いを振り返る【写真:Getty Images】
(左から)都築龍太と山岸範宏のGK争いを振り返る【写真:Getty Images】

都築龍太の加入で始まった“第二次GKバトル”

 それはプライドを懸けた猛烈なポジション争いというよりも、感情的な要素を多分に伴った敵対関係のようでもあった。語り草になっている主力GK同士が繰り広げた伝説的な“冷戦”。そんな出来事が浦和レッズには過去に2度もあった。

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 三菱の生え抜きである土田尚史、生粋の浦和っ子で1学年下の田北雄気が展開した“第一次GKバトル”は、1992年に幕を開けた。

 眼光は鋭く、真っ黒に日焼けした顔と低い声が迫力を倍増させる土田に対し、ポーカーフェイスで喜びのパフォーマンスも控えめな田北。目も合わさなければ、口も利かない2人はともに2000年をもって引退。J1リーグ出場は土田が134試合で、田北は114試合だった。

 これより壮絶だったのが、同い年の都築龍太と山岸範宏による“第二次GKバトル”だ。03年に始まり、都築が湘南ベルマーレへ期限付き移籍する10年7月まで続いた。

 埼玉生まれの山岸は中京大から01年に地元の人気クラブへ加入。新人時代は公式戦の出場がなかったが、2年目の7月からレギュラーとなり、鹿島アントラーズとのナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝にも出場した。前途洋々に思えたが、03年に日本代表の都築がガンバ大阪からやって来ると様相は一変する。

 02年6月に就任した犬飼基昭社長は、仲間がミスしても容認するチーム体質を嘆き、「仲良しクラブの従順な選手をしかりつける強烈な個性が必要」と考えた。そこで都築を勧誘。続いて04年に田中マルクス闘莉王や三都主アレサンドロを獲得し、岡野雅行を復帰させた。いずれもずけずけと物申す面々である。

 都築が加入しても03年は山岸が開幕戦からゴールを守った。しかし5節のセレッソ大阪戦で6失点し、8節と9節で計7失点すると第10節の横浜F・マリノス戦から控えに回った。クラブ初タイトルとなる秋のナビスコ杯決勝のピッチにも立てず、04年9月まで先発の陣容から名前が消えた。

山岸と都築の関係を象徴することわざ

 だが都築の栄華も長くは続かない。04年9月に山岸に正GKの座を譲ると、第2ステージ初制覇と横浜FMとのチャンピオンシップの晴れ舞台は遠望するだけ。ところが翌年2月の強化合宿中に山岸が左肩を亜脱臼したことで、都築がリーグ戦2位、天皇杯初優勝の立役者の1人として再び脚光を浴びる。

「いやあ、めちゃめちゃ悔しかったですね。言葉は悪いけど、なんでお前がここにいるんだ、どうして浦和に来たんだ、という感情は人間ですからやっぱりありましたよ。会話なんかなかったし、周りも僕らに相当気を遣っていたと思う」

 これが山岸の本音だった。

 06年も開幕から先発した都築だが、4月の大宮戦で右ひざを負傷。山岸がポジションを奪い返し、悲願のリーグ王者に到達する。だが間の悪いことに07年は開幕直後にインフルエンザに罹患。またもや都築に出番が訪れると日本勢として初めてアジア・チャンピオンズリーグを制し、クラブ・ワールドカップでも3位に輝く栄誉に浴した。

 山岸は加入1年目を除き、公式戦出場が最少の3試合という不名誉なシーズンを過ごした。

 都築は08年も守護神として存在感を示し、5年ぶりに日本代表に復帰した09年も先発を続けたが、9月に古傷の右膝を痛めて山岸が登板することになる。

 禍福はあざなえる縄のごとし――。まったくもって、2人のためにあるようなことわざではないか。

後に浦和で切磋琢磨し合った(左から)榎本哲也、土田尚史コーチ、西川周作【写真:Getty Images】
後に浦和で切磋琢磨し合った(左から)榎本哲也、土田尚史コーチ、西川周作【写真:Getty Images】

現役時代には言えなかった本音

 都築の言葉も紹介する。「必要なことしかしゃべらなかった? いやいや、そもそもギシ(山岸)との間で必要なことなんて何もなかったからね。練習中も練習後も全く話さなかった。新しいキーパーグローブが出た時にちょっとしゃべったかなあ。違うかな、どうだったろう」

 17年に横浜FMから榎本哲也が移籍してきた。3つ年下の西川周作といつも笑顔で話しているのを見た私は、「周作君とはよくコミュニケーションを取っているね」と水を向けた。榎本は「もう積極的に長所を参考にしていますよ。ビルドアップやシュートストップについて聞くと、丁寧にいろいろ教えてくれるんです」とうれしそうに答えた。

 私はさらに「浦和は土田と田北、都築と山岸のGKが火花を散らしていたんですよ」と説明すると、「土田コーチから4人の関係を詳しく聞きました。すごかったそうですね。でも僕はいい雰囲気の中で楽しくサッカーをやりたいから、周作とぎすぎすした関係になることはあり得ない」とし、岩舘直と福島春樹を含め和気あいあいとしたGKコミュニティーを形成していた。

 10年のシーズン前、就任2年目のフォルカー・フィンケ監督は4人のGKを集め、「ナンバーワンは山岸で、加藤(順大)、大谷(幸輝)、都築の順だ。もちろん体調などによって代わることはある」と都築にとっては何とも非情な下命が拝された。

 やや不条理な序列の真意を尋ねた私は練習場の監督室に呼ばれ、「チームメートをしかり、怒鳴りつける勢いが激しすぎる」との説明を受けた。柱谷幸一ゼネラルマネジャーも「仲間への態度があまりに厳しいと監督は言っている」と教えてくれた。

 浦和では出場機会がないことを悟った都築は、6月に湘南へ期限付き移籍したが、浦和へ復籍することなく10年限りで現役を終えた。7年半に及ぶ“第二次GKバトル”も同時に終幕となった。

 後年、都築は「仲間を怒鳴るのは自分に対するプレッシャーでもあった。人に厳しく言う以上、自分もミスはできない。自分のために怒鳴っていたところもあるんですよ」と振り返る。山岸については「シュートストップは一流だったし、2人の存在は互いを高める相乗効果になった。まだ会話がない? 引退してからは普通にしゃべっていますよ」と野性味たっぷりの男が相好を崩した。

 山岸も現役時代には口が裂けても言えなかった言葉を放つ。「龍太のプレーとキャラクターは尊敬していたし、うらやましかった。競争できたから日本代表クラスに成長したのは確かで、あれだけ高いレベルの争いは他のクラブでは体験できなかったと思う。仲は良くなかったけど」と付け加えて同じように笑った。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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