トヨタを3年半で退社→豪では遠洋漁業船で8か月生活 インドで2000キロをドリブルする男の異色の歩み【インタビュー】

インドをドリブルで走破し子供たちへのサッカー教室も行う萩原望さん【写真:本人提供】
インドをドリブルで走破し子供たちへのサッカー教室も行う萩原望さん【写真:本人提供】

大分U-18時代はキャプテンを務めるも、トップチーム昇格はならず

 インドをドリブルで2000キロ走破し、道中の村で子供たちにサッカーを教えるワークショップを開催する――。そんな壮大な計画にチャレンジしようとしている大分トリニータU-18出身で、会社員として働きつつ、「FC Nono」を運営する萩原望さん。なぜ、そんな破天荒なチャレンジを決意したのか。大胆な挑戦の背景には、サッカーと教育を軸に紡がれてきた独自のキャリアがある。(取材・文:福谷佑介)

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 岡山県倉敷市出身の萩原さんは3歳からサッカーを始めた。地元の強豪チーム・オオタFCでプレーし、中学時代はサウーディFCでプレーし、DFながらドリブルスキルを磨いた。高校時代は複数あったJクラブの下部組織の選択肢から、大分トリニータのU-18へと進んだ。当時の大分はJ1で4位、ナビスコ杯優勝と好成績を残し、西川周作、清武弘嗣ら下部組織出身者も数多く活躍。若手育成の評価も高かった。

 大分U-18で寮生活を送りながら、萩原さんは2年生からレギュラーとして活躍し、2年生ながら副キャプテンに任命、3年生になるとキャプテンにも就任した。選手寮にはトップチームの若手もおり「清武(弘嗣)くんは寮の中でも裸足でマーカードリブルとかをやっていました。本当にサッカー小僧で、ボールタッチが上手すぎでした」。主力選手が食堂に食事に来ることもあり、プロの世界を間近に感じることができた。

 ただ、プロの世界への扉は開かれなかった。3年生の春には3者面談でクラブからトップチームへの昇格が叶わないことを告げられた。「そもそも技術面が追いついていなかったですね。身長も181センチでセンターバックとしては大きくなかったですし、プロのレベルに追いついていなかったですね」と当時を振り返る。プロの夢は叶わず、スポーツ推薦で立命館大へ進学したのだった。

 進学した立命館大で萩原さんは、自らが歩む人生の新たな方向性を見出していく。4年時にはキャプテンも務め、サッカー部の活動に打ち込みながら、教育系のNPOで不登校児童の支援活動に携わるようになった。大学の授業も教室の最前列で受講し“普通の部活生”の枠を超えた活動は、時に「変わったヤツ」と見られることもあった。

幼少期から地域の奉仕活動に参加する両親を見て育ち、社会貢献への思いを膨らませていた

 大学卒業後はトヨタ自動車に入社。「同期の約8割が旧帝大出身で、私学はもうほとんど早慶しかいない。関西の私学から入れたのはかなりラッキーだった」と萩原さんは言う。ただ、世界的な大企業をわずか3年半で退社。「トヨタは本当に素晴らしい会社で、周りも優秀な方が多かったです。ただ、自分のしている仕事は自分の強み、自分の価値なのかな、自分にしかできないことなのかなって思ったんです」。

「自分にしかできないことをやりたいという思いはやっぱりありました。海外志向も持っていましたし、発展途上国の問題、人間の安全保障とか、今日明日を生きる人への関心があったんです」。両親はともにクリスチャンで、父はフランス文学の教授、母は英語の通訳という家庭環境で育ち、ホストファミリーとして自宅に留学生の受け入れていたりもした。幼少期から地域の奉仕活動に参加する両親を見て育った。医師の中村哲氏らのドキュメンタリーなどを見ることも多く、社会貢献への思いを膨らませていた。

 退社後は国連の職員になるため、まずアメリカ・シアトルのNGOで難民支援に携わりつつ、大学院進学を目指した。大学院の結果が出るまでの7か月間は、オーストラリアで遠洋漁業の船員として働いた。「人生で体力的には1番キツかったと思います。逃げ出したくても逃げ出せないので……」。船長含めて乗組員4人の漁船上で生活し、朝の7時から夜の12時まで漁に従事。船が時化(しけ)に遭い、命の危険を感じる経験もした。

 結局、大学院進学は叶わず、日本のNGO団体へ。ここで派遣されたのが、今回の「2000キロドリブル」のキッカケとなるインド最貧州のビハール州だった。有機農業の普及支援プロジェクトの事業管理者として当地に赴いた。室内温度も40度を超えるような村のゲストハウスで暮らし、食事はそのゲストハウスのオーナー家族に頼んで1日3食、カレーを食べさせてもらった。

 このプロジェクトで滞在していた村での“空き時間”を使い、自分の運動のためにとサッカーをするようになった。すると、興味を持った村の子供たちが集まるようになり、サッカーを教えるようになった。はじめは男の子だけだったが、その男の子たちの姉や妹といった女の子たちにも少しずつ“サッカーの輪”が広がっていった。

「経済的な貧困はもちろんなんですけど、子供たちの栄養問題だったり、水回りの衛生環境といった問題が見えてきました。また、サッカーをしている男の子を、そのお姉ちゃんとか妹が羨望の眼差しで見ていて、女の子はスポーツをやらないんだっていうのを知って、そういった子供たちが抱える課題とかも見えてきました。そうした中で自分の家族や人生を本気で変えたい、という男の子が出てきたり、女の子も参加するようになったりして、サッカーが持つ力と、子供たちや女の子の権利向上というところで、サッカーやスポーツの持つポテンシャルを認識するようになりました」

 ビハール州で暮らしながら、子供たちにサッカーを教えていると、インドが抱える社会問題が見えてきた。環境はもちろん、人々の間に根強く残るカーストや女性差別……。もともと社会貢献に対して積極的だった萩原氏は、サッカーを通じてインドの社会課題を解決するという、自身がやりたいことを見つけ、その一環として、今回の「2000キロドリブル」プロジェクトを計画。このプロジェクトの先に描く展望とはいかなるものなのだろうか。

(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)



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