試合中に“腹パンチ”、間近で目にした得点マシーンの真骨頂…J名門黄金期を彩った助っ人たち【インタビュー】

かつて磐田でプレーをしたドゥンガ(写真右)【写真:産経新聞社】
かつて磐田でプレーをしたドゥンガ(写真右)【写真:産経新聞社】

ジュビロの歴史を彩った名助っ人とのエピソード

 現在ジュビロ磐田のトップチームマネジメント部リエゾンを務める山西尊裕氏は、クラブの黄金期を知る1人である。そんな時代の牽引役となったのは、元ブラジル代表主将をはじめとした大物海外助っ人たち。山西氏に彼らとの思い出深いエピソードや得た教訓、外国人選手の変化について語ってもらった。(取材・文=高橋のぶこ)

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  ◇   ◇   ◇   

――Jリーグでは多くの外国人選手が活躍してきていますが、山西さんの現役時代のジュビロには世界的な名手が在籍していました。彼らとの思い出話を聞かせてください。

 強烈だったのは、やはりドゥンガですね。ドゥンガと言えば山西なんで(笑)。「ドゥンガ」「怒る」でYouTubeを検索してみてください。必ず私が出てきますから、彼がピッチで怒っているシーンに(笑)。なんならナレーションでドゥンガのセリフまで入っていますよ。「おいっ山西っ!」って。ありがたいですよ。怒られなかったらYouTubeに出られなかったですからね(笑)。

――忘れられない“怒られエピソード”は?

 数えきれないですけど(笑)。97年のヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)ですかね。決勝に進出して強敵・鹿島(アントラーズ)と対戦したんです。第2戦のアウェーはブラジル代表戦のためにドゥンガは不在になることが分かっていて、自分がいないアウェー戦を少しでも有利にしようと思った彼は、第一戦の前に僕にある指令を出しました。

 決勝前に相手の主力の外国人選手にイエローが積もっていて、第一戦でもう1枚もらえば第2戦は試合に出られなくなるので、その選手が試合中にファウルしたら、おまえが審判にイエローではないかとアピールしろ、と。ドゥンガは日本語が喋れないし、それまでレフェリーに言っても流されることが多かったので僕に役目を託したんです。

「分かった」と言ったけど、試合に入ったら自分のプレーをするのに一生懸命ですっかり忘れちゃって。試合半ばにドゥンガが派手に倒されて、山西のアピールを待っていたんでしょうね。しばらくそのままバタバタしていたんですけど、セオリーどおりのクイックスタートから背後に走り出そうとしたら、ドゥンガが急に起き上がって「おいっ山西!」って(笑)。「そうじゃないだろ」っていう感じで首根っこをつかまれて腹パンチされました。

――腹パンチですか!?

 グーで(笑)。手加減はしていたけど。メインスタンドでそれを見ていた兄に「パンチされてたじゃん」って驚かれましたよ(笑)。味方に腹パンチはダメでしょ、と思うけど、勝つことにそれだけの執念を持っていたということ。その執念を、鮮明に覚えていますね。

――いわゆるマリーシアですね。

 そうですね。でも、プレーでも凄いなと思うことばかりでしたよ。あるときドゥンガに「俺がボールを持ちそうになったら走れ」と言われたんです。持ったらではなく、持ちそうになったら、と。僕らはオフト監督に、基本としてボールホルダーと目が合ってから動けと言われていたので、それはダメだろうと思ったけど、ドゥンガはアイコンタクトをしてからでは遅いんだ、と。

 要は「俺を誰だと思ってるんだ?」ということでもあるんだけど(笑)。で、半信半疑で走ってみたら、本当にピタッでボールが飛んできた。次から彼が持ちそうになったらダッシュですよ(笑)。中盤で彼が相手に囲まれていてもちゃんと来ましたから。それくらい技術が高かったですね。ドゥンガだけではなく、(故サルヴァトーレ・)スキラッチやジェラ(・ファネンブルグ)も、とんでもなく上手かった。

助っ人たちとのエピソードを話してくれた山西尊裕(14番)【写真:Getty Images】
助っ人たちとのエピソードを話してくれた山西尊裕(14番)【写真:Getty Images】

Jリーグの外国人選手は“手本”から“助っ人”へ

――W杯でも活躍した選手がジュビロを支えていましたね。

 ありがたい経験でした。実際に一緒にプレーをして、肌感覚で教わったことは本当にたくさんありましたから。ジェラはドゥンガとはまた球質が違った正確無比のロングキックを蹴るんですよ。自分もやりたくて練習で真似をしていたら「おまえはやらなくていい」って言われました(笑)。まずはちゃんとしたキックを覚えなさい、それが一番大切なことだ、と言われてすごく納得しましたよ(笑)。

 トト(スキラッチ)は僕のアバウトな至らないクロスをいとも簡単にゴールにねじこんでしまう。ズレたり足元でバウンドするような難しいボールも合わせて決めてくれました。本当に得点マシーンでしたね。アジウソンはゴール前でどんなボールも全部跳ね返していて、DFたちはみんな憧れたしめちゃくちゃ影響を受けました。

――当時、ドゥンガから得た一番大きなものは?

 勝つことに対するシビアさ、勝利への執念、闘志です。それを選手全員に叩き込んでくれました。要は、その1試合に生活が懸かっているんだ、と。サポーターの応援も含め、いろいろなものがその勝敗で変わるんだぞ、と。その厳しさを知ったことはチームにとって大きかった。プレー以上のものをチームにもたらしてくれましたね。

 ドゥンガは強烈で過剰なところもあったかもしれないけど、それ以上に彼のような存在はその時のジュビロにすごく必要だったし、強くなるためには不可欠でした。チームに植えつけられたそういうものは常に保っていかないといけないけど、サッカークラブとしての環境などいろいろなことが整ってそれが当たり前になってくると、忘れがちになるかもしれない。本当は逆にそういうなかでこそ最も重要になるものだと今は思いますね。

――現役当時と今の外国人選手の違いはありますか?

 今のジュビロの選手がどうこうではなく、Jリーグの外国人選手は2つのタイプがあると思います。プレーで貢献するだけではなく“手本”になる選手と、“助っ人”の選手。私が現役のときは、お話をしてきたようにオフザピッチも含めて手本となる選手が多く、勉強になりました。Jリーグが発足したばかりでチームも選手も未熟で、学ばなければいけないことがたくさんあったからだとも思います。

 今はJリーグ全体で“助っ人”の要素が強くなっていて、それは日本のサッカー界のレベルが上がっていることの1つの証明でもあると思います。助っ人と手本の両方の要素があることが理想だと思うけど、そういう変化も踏まえて、マネジメントをする部署で仕事をさせてもらっている中で私が感じているのは、各クラブのフェーズにどちらがより必要でマッチするかを見極めることが、とても重要なのではないかということです。

[プロフィール]
山西尊裕(やまにし・たかひろ)/1976年4月2日生まれ、静岡県出身。清水東高校を卒業後の1995年、ジュビロ磐田に入団。DFとして2004年までプレーし、その間に3回のJ1リーグ年間優勝や天皇杯制覇など数々のタイトル獲得に貢献した。05年から08年までは清水エスパルスに在籍し、翌年1月に現役引退を発表している。引退後は指導者の道へ。磐田U-18コーチから始まり、U-15コーチ、ジュビロSS浜松監督を経て、13年から23年まで常葉大学浜松キャンパスサッカー部でコーチと監督を務めた。

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