深夜に車で神戸へ…実家は「火の海」 停電なのに「明るい」広がった光景に自問自答の日々【インタビュー】
神戸市出身の永島昭浩氏は震災当日に数時間かけて実家へ
トップの舞台で輝き放った選手はどのようなキャリアを歩んで来たのか。何を考え、何と戦い、挫けて這い上がったのか。「FOOTBALL ZONE」では選手の半生を深掘りする連載を実施。現在、大阪府サッカー協会の会長を務める元日本代表FW永島昭浩氏。神戸市で生まれ育った永島氏の実家は30年前の1月17日、阪神淡路大震災で被災した。当日に現地入りをした永島氏は目の前に広がった光景を忘れることはない。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小杉舞)
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1本の電話が鳴った。1995年1月17日の早朝、当時プレーしていた清水エスパルスの職員から連絡があった。「永島さん、大変。神戸が地震で」。その一言にゾッとした。「夢の続きかな」。実はその数時間前、取材で海外から帰国し、疲労の中で就寝すると地震の夢を見た。これは現実か――。半信半疑で飛び起きた。
テレビを付けたら家屋が倒れ、火事になっている映像が流れてきた。「連絡をしないと」。急いで実家に電話をかけるもつながらない。「とにかく帰ることを考えた」。飛行機は満席、名古屋まで新幹線で行き、在来線で大阪・難波まで。友人に車を借りて神戸に向かった。
道なき道を進み、何時間もかけて、到着したのは深夜。「実家の近くは電気が全部消えているのに明るく見えている。火の海で、照らしているように見えて。それはもう映画の世界を超えているような情景でした」。実家は全壊。訪れた永島氏の姿を見て、すぐに近所の方が駆けつけた。「ご両親は無事ですよ。でも怪我をしたので病院に運ばれました」。一安心したのも束の間、避難所となっている中学校に向かった。
突然、日常が変わってしまい、不安が消えない。「自分に何ができるかな」。車で来ていたこともあり、山を越えてコンビニで買い出しに出かけた。それも何往復も。みんなが生きるために支えることで必死だった。
サッカーは全くできず。1週間ほどその生活が続いた。「サッカーしている場合じゃないなというのが正直なところ。自分に何ができるのかずっと自問自答していた」。
神戸へ決意の移籍「贅沢な環境は望まない」
震災から4日ほど経ったときだった。とても寒い日。ぬるい風呂につかった時に改めて気付いたことがあった。
「本当に温かさを感じた。風呂のありがたみを感じて。サッカー選手だけどボールを蹴るだけじゃなくてそれ以外にできることがあるということをすごく考えさせられたし、そのための時間であったと記憶しています」
1月17日、この日はヴィッセル神戸がクラブを創設し初練習の日でもあった。そんな神戸からシーズン途中にオファーが届いた。清水でプレーしていた永島さんは即答した。
「神戸にぜひ行かせてください、と。ただエスパルスにも正直な気持ちを伝えなきゃいけない。シーズン途中だったので『感情的になっているかもしれない』と配慮してもらい、レンタルで移籍になった。これを受けいれてもらって本当にありがたかった」
神戸に力を。その一心だった。精神的にも、経済的にもダメージを負ったチームで活躍する。練習場も学校の運動場などを転々とし、シャワー施設もない。自身でテーピングを巻いたり、環境は一変したが「全く苦ではなかった」という。
「人の心、街が傷ついているなかで力を貸してほしいと言われて、こんなに光栄なことはない。ましてや好きなサッカーボールを蹴る、サッカーで喜んでもらえるんだったらという気持ちもあった。贅沢な環境は望まなくて、こんなに幸せな仕事はないという思いで帰ってきました」
ミスター神戸。永島氏についた愛称は今も親しまれている。あれから30年――。永島氏が思うことは「みなさんに感謝しかないです」。力を与え、与えられてきた“復興”神戸とともにこれからも生きていく。
(FOOTBALL ZONE編集部・小杉 舞 / Mai Kosugi)