遠征先のホテルに響いた爆音…本当に訪れたファンタジスタ 引退後も続く“相思相愛”【インタビュー】

幼少期から憧れ、初めて買ったスパイクも中村俊輔モデル
比嘉祐介は1989年5月15日に生を授かった。
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生まれも育ちも沖縄県名護市で、海と太陽に囲まれてのびのびと育った。幼少期は9歳から始めたサッカーに没頭したが、「まったくエリートではなかった」と回想する。グラウンドと美しい砂浜で、とにかくボールを蹴っていた。
憧れの存在がいた。元日本代表MF中村俊輔である。
比嘉がサッカーにのめり込み始めた頃は、稀代のファンタジスタが日本代表デビューを飾った時期で、日の丸を背負ってプレーする背番号10ばかりを目で追いかけた。テクニック溢れるドリブル、ゴールをお膳立てするラストパス、そして代名詞である直接フリーキック。すべてがカッコよかった。
代表戦翌日はキックフォームを真似した。自身は右利きなので理想と現実は大きくかけ離れていたが、それすらも楽しかった。
シューズはもちろん中村俊輔モデルのadidas製品だ。スポーツ用品店で初めて買った高価なスパイクの値段は忘れもしない1万6500円。「シュンさんの写真と一緒に飾られていました。それだけが理由で買いました。一生忘れないでしょうね」と、今となっても少年のように目を輝かせる。
その存在が横浜F・マリノス入団の大きな後押しになったのは、あらためて言うまでもないだろう。交流のある選手がいなくても、サッカーにのめり込むきっかけとなった選手と一緒にボールを蹴りたいという想いが膨らんだ。憧れの選手はチームメイトに変わった。
もっとも、加入直後から距離を縮められたわけではない。主に面倒を見てくれたのは栗原勇蔵や兵藤慎剛で、ピッチ内外で多くの時間を共にした。すると栗原が若手時代から中村に世話になっていたこともあり、自然と接点が生まれるようになった。
「関係を深めたキッカケがわからないんです。ランニングで並んで走って、ウォーミングアップの2人組も一緒でした。どこかのタイミングでお互いに“イケる”と思ったんでしょうね。気がついたら、ずっと2人でいました。シュンさんはああ見えて超おしゃべり。たくさんの経験があるから昔話も全部おもろい」
プロ入りした2012年、そして、チームが優勝争いを演じて中村がMVPに輝いた2013年、2人はピッチ内外で関係を深めた。先輩と後輩や、師弟関係といった形容はおそらく正しくない。実績と名声があまりにも偉大な中村に対してでも、比嘉はいつも自然体で同じ高さの目線。だから居心地が良かった。

ホテルを訪問した中村俊輔「泊まっているホテルにわざわざ来てくれて」
プロ3年目の2014年、出場機会を求めて京都サンガF.C.へ期限付きで移籍する。自身のキャリア形成のための一大決心だった。
忘れられない出来事がある。京都の一員として横浜FCと対戦するために横浜へ帰ってきた時のこと。試合前日、宿泊している横浜市内のホテルに中村が訪れた。
「自分がノリで『会いに来てくださいよ』って言ったら、泊まっているホテルにわざわざ来てくれて。アストンマーティンですごい音を鳴らしながら乗り付けてくれた。コーヒーを飲みながら、最近の話をしただけ。何か相談したわけではないし、されたわけでもない。他愛もない話をしながら笑っていました。でも、一番うれしかった出来事です」
中村は比嘉を「太陽みたいな存在」と称していた。その理由は自己分析にもピタリと当てはまる。
「人生で後悔したことがない。結局、自分が選んだ道をどう楽しむか。お金が1万円あっても100万円あっても変わらない。1万円を全力で遊ぶし、100万円でも全力で楽しむ。恐怖心もない。お金がないなら、ない中でやればいいだけだから。なるようになりますよ」
これこそが「なんくるないさ」の精神である。サッカーに対してストイックな姿勢で打ち込んでいる中村からすると、比嘉の明るさはまるで太陽だった。
プロサッカー選手になる夢を叶え、現在はバーの店長として次の夢を描いている。現役時代に後悔は一切ない。いや、あるとすれば……。
「シュンさんと2トップを組むのが夢だったのになぁ。あと一番やりたかったのは、FKの場面で並んでオレが蹴ること。点差があって余裕がある展開でやりたかった。絶対に映像に残るはずだから。GKも壁に入っている選手もオレはノーマークのはずだから、枠に飛べば決められるかもって。でも、ほとんど一緒に試合に出られなかったからチャンスがなかった。それだけが心残りかな」
密かに温めていたプランを明かし、悪戯に笑った。歴史の1ページに残るであろう“珍プレー”は夢物語のまま終わった。
「近々、食事しようってLINEしてるんですよ。でもシュンさんは指導者ライセンス取得のために海外へ行ったりしていて忙しそう。ま、すぐに会えますよ」
互いにセカンドキャリアをスタートさせた今でも連絡を取り合うほど仲が良い。育んだ相思相愛はこれからも続いていきそうだ。
(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)
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藤井雅彦
ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。