一流会社の社員が異例の欧州挑戦 監督に直訴し退社…常務が欧州会長に電話で実現「オランダに行ってこい」【インタビュー】

G大阪でもプレーした永島昭浩氏【写真:Getty Images】
G大阪でもプレーした永島昭浩氏【写真:Getty Images】

大阪府サッカー協会会長の元日本代表FW永島昭浩氏は松下時代に欧州へ

 トップの舞台で輝き放った選手はどのようなキャリアを歩んで来たのか。何を考え、何と戦い、挫けて這い上がったのか。「FOOTBALL ZONE」では選手の半生を深掘りする連載を実施。現在、大阪府サッカー協会の会長を務める元日本代表FW永島昭浩氏は御影工業高校卒業後に松下電器のサッカー部に入部。社会人経験を積みながら、異例の海外挑戦もした。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小杉舞)

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 名門・御影工業高校を卒業した永島氏は松下電器に入社し、サッカー部に入る。その入社試験、高卒と大卒合わせて300人。筆記試験と面接があり、志望動機を聞かれた。その時に答えたのが「松下電器のサッカー部を世界一のクラブにしてみせます」。この宣言が後に人生を動かすことになる。

「まだ創部4年目、5年目ぐらいの新しいチームだった。実際にはまだ18歳で高校卒業したばかり。午前中は一般の社員と同じで、電化製品の仕事をこなして、昼から練習。週末は試合。当時はJリーグがなかったので当たり前の環境だったし、僕が入ったときは松下電器はまだ関西社会人リーグだった。サッカーを優先して入っているけど、サッカーのことで仕事を休むとかは絶対に許されへんような環境だったので、慣れるまでは非常にきつかったですね」

 配属されたのは厨房機器事業部の品質管理課。朝7時に出社して朝食を取り、掃除や新聞を読む。7時55分にラジオ体操、8時から朝礼で仕事がスタート。主にシステムキッチンの人工大理石を検査して、午前中には仕事を終える。会社の食堂で昼食を取り、そのまま練習場へ。トレーニングを積んで、寮に戻って翌朝はまた6時に起床する。

 野球部やバレー部には歴史があり、スポーツで結果を出せば社内で“出世”している人もいた。「活躍したら恩恵はあるんだろうな……」。そう感じてはいたが、頭の片隅にあったのはサッカーに集中したい、プロになりたい、日本代表になりたい、という思いだった。

「大きな会社だったし、社会人の心構え、生き方、考え方が勉強になった時期ではあった。でも24時間、フルでサッカーにチャレンジしたい。日本においてはJリーグがない時代でそれは不可能。だとプロになるためには海外にチャレンジするしかないという結論に至ったので、社員であるサッカー部の監督に相談しに行った。会社を辞めて海外に挑戦したいと報告して、『ちょっと待って、会社に言ってみる』という返事でした」

会社がバックアップ、決まったオランダ行き

 約3週間後、返答は「大いにチャレンジしたらいい。プロになれるならプロになって活躍してこい、ダメだったら松下電器の社員に戻ったらいい」というありがたいものだった。

 ではどの国に行くか。これは松下電器サッカー部の水口洋次監督から相談を受けた、同部顧問・中尾常務が掛け合ってくれたという。中尾常務から水口監督への指令は「永島に関する3つのレポートを用意すること」。1つは会社における勤務態度、2つ目がサッカー部の活動報告、3つ目が寮における生活態度だった。さらに入社試験の際に答えた「松下電器のサッカー部を世界一のクラブにしてみせます」という言葉も中尾常務の耳に入った。

「結果的にこの言葉が中尾常務の心を動かすことになったみたいで。中尾常務がお友達だった(オランダの名門)PSVのメインスポンサーのフィリップスの会長と電話で話をしてくれて。すぐに『決まった』と。それで『オランダに行ってこい』と言われて、3か月セカンドチームに入らせてもらうことになった」

 PSVは前年に欧州王者になっていた超強豪。「とにかくチャレンジ」。その思いだけで動いたら周囲の助けもあって大きなチャンスを掴んだ。だが、実際に欧州に行くと練習に参加するだけで、公式戦には出場できず。「なぜだろう」。その疑問と悔しさを直接ぶつけることにした。

「セカンドチームでも試合があるのに2週間ぐらい経っても試合に出られない。その時ゼネラルマネージャー(GM)のホームパーティーに招かれたので自分の思いのたけを伝えようと思って。その場で『僕は勉強しに来たわけじゃない、僕はプロになるために来たんだ』と話すと、GMは驚いた顔をしていた。会って挨拶はしていたけど僕自身が何の目的でここに来たかを伝えていなくて、向こうは勉強しに来たと思っていた。だから試合にも出してもらえなかった。週末には公式戦であるハーレムカップの準決勝に後半から出してもらえた」

海外で掴んだ「空振りしたって『大したミスじゃない、次入れたらいい』」

 慣れない英語で伝えきった。ただ、この英語も渡欧が決まった時、出発までの約3か月間は午前中の仕事を免除、ネイティブの英会話レッスンを会社が用意してくれた。だからこそ欧州での道が開けた。

 ハーレムカップの準決勝で1得点、決勝では2ゴールの活躍を見せて、とうとうトップチーム昇格の話が。だが、結果的に右足の鼠径ヘルニアで帰国を余儀なくされた。

「でも僕の人生のターニングポイントと行ってもいいぐらいの時間になった。現地でヘッドコーチが『君は素晴らしかったよ』と言ってくれたけど、当時の僕は『6本シュートを放って2点しか決められなかった』と返した。そしたら『何を言っているんだ、スーパースターは必ず失敗する。パーフェクトな人間はいない。素直に喜んだらいい』と言われて。それまではミスしたら反省してしまってプレー中引きずっていた。でも、空振りしたって『大したミスじゃない、次入れたらいい』と上向いて次の1点だけを考えるようになった。帰国したが次の年に本気で日本で一番点を取って、日本代表に選ばれることになった」

 イチ社会人が決意の欧州行き。今から35年前の出来事だ。日本でプレーするサッカー選手の先駆けとも言える行動は大きなバックアップもあり実現したものだった。

(FOOTBALL ZONE編集部・小杉 舞 / Mai Kosugi)



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