同級生が殴られ…運命変えた「ケンカ」 推薦ドタキャン、名門高校進学で志した日本代表【インタビュー】
大阪府サッカー協会会長の元日本代表FW永島昭浩氏の半生を振り返る
トップの舞台で輝き放った選手はどのようなキャリアを歩んで来たのか。何を考え、何と戦い、挫けて這い上がったのか。「FOOTBALL ZONE」では選手の半生を深掘りする連載を実施。現在、大阪府サッカー協会の会長を務める元日本代表FW永島昭浩氏は小学4年生でサッカーを始めた。わずか5年で名門・御影工業高校に進学することになった経緯を探る。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・小杉舞)
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「もう50年も前の話なんだけど、小学校の校庭のうんていの前で先生が西日を受けて『君は神戸市で指折りの選手だ。神戸市選抜に選ばれるぐらい』と褒めてくれた。その言葉がなかったらサッカーを続けずにプロ野球選手を目指す道を選んでいましたね」
野球が大好きだった小学4年生の時、サッカー部ができたことをきっかけに「1年間だけサッカーをやってみよう」と挑戦。やり切って退部を告げた時、当時の先生から後押しされた。「じゃあ……」と思い直して続けたサッカー。実際6年生の時には選抜入り。中学へ進学してサッカー部に入部したが、グラウンドは週2日しか使えなかった。
「野球部が全盛の時代で、世の中の背景としてもテレビを付けたらスポーツならプロ野球が9割以上。その次は大相撲だった。だから中学のグラウンドもほぼ野球部が使う状況だった。ほかの週5日間は小学校の時と同じように自分で練習メニューを考えたりして練習していた」
その環境下で名門へ進学したのはなぜか。中学3年生時に兵庫県選抜へ選出された。だが、その直後事件が起きた。
「ある日の下校途中にクラスメイトと家に帰ろうとしたら、ほかのクラスメイトが他校生にケンカを売られて、殴られたり蹴られたりしていた。それをもちろん助けて、ちょっとケンカになってしまった。次の日にサッカー部の監督に報告しに行ったら、先生が腕組みしてじっと考えて。1か月後の兵庫県選抜が出場する予定だった全国大会に『君を出場させない』と。すごくショックで、生意気にも反論して試合に出ることだけを考えて『サッカー上手いからええやろ』ということまで言ってしまって」
滝川高校から御影工業高校への進路変更「思いが強くなった」
そこで監督が話したことは「サッカーでもルールがあるように、学校でも社会でもルールがある。ルールを破った人間はサッカーならいいというのは違う。チームに迷惑をかけている」ということだった。その言葉にすごく反省した。それと同時に芽生えたのはリベンジしたいという気持ち。「もう1度兵庫県選抜に選ばれて、全国大会に出場して日本代表になりたい」という目標だった。
実は当時、自宅から徒歩10分の滝川高校からスポーツ推薦でサッカー部へ入部してほしいという話があった。だが事件直後に誓った「もう1度」という思いから、受験をドタキャン。進路を変更して、当時一番の強豪だった御影工業高校行きを決めた。
「滝川高校に対しては不義理をして本当に申し訳ないという気持ち。でも不祥事を起こしたことによって、自分の思いが強くなった。そのエネルギーをすべて出して前に行く。モチベーションを考えて僕は御影工業高校を選んだ」
入学後は毎日朝5時に起床、電車で約40分の通学。朝練で1時間半、放課後には居残り練習までして帰宅。中学時代とは全く違う環境が待っていた。でもこれこそ自らが望んだサッカー漬けの日々。夢の全国大会にも出場できた。
だが、入学直後のインターハイ。冬の常連だった御影工業高校が、夏の大会にも出場した。これは予選で永島氏が大活躍したからでもあった。夢に見た全国切符。「次こそ……」。そう願っていたがまたも試練が待ち受けていた。
「1回戦の前に高熱を出してしまって出られない状況になった。チームも負けてしまって。練習量は増えたんだけど、体調管理をすることができていなかった。今度は2度と身体を壊さないように、と誓いましたね」
才能が認められ、順風満帆に進むかと思われた永島少年のキャリアには躓きもあった。だが、それらをすべて糧にしたからこそ、トップまで駆け上がれた。この先に待ち受ける運命も受け入れ、乗り越えることができたのだ。
(FOOTBALL ZONE編集部・小杉 舞 / Mai Kosugi)