悟っていた五輪落選「無理だな」 演技だった落胆の様子…仲間に託したビデオレター【インタビュー】
複数のクラブから選んだ横浜FM加入「J1のチームに行きたかった」
比嘉祐介が流通経済大学からプロの世界に飛び込んだのは2012年のことだ。ロンドン五輪を目指す世代別代表で左サイドバックを担っていた有望株に対して、複数のJクラブが興味を示していた。
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早くから練習に参加していたのが首都・東京をホームとするFC東京だ。
「大学2年生の時から練習に参加させてもらっていて、実は最初に行きたいと思っていたのはFC東京なんです」
唯一にして最大の懸念材料が、カテゴリーの問題だった。比嘉が大学3年時の2010年、FC東京はJ1リーグで16位と低迷し、J2降格を余儀なくされる。そのため大学4年時は1年でのJ1復帰を目指してJ2リーグを戦っていた。
当時、プロ入りを志す大学生は4年生の夏から秋にかけて進路を選択するケースがほとんど。比嘉の場合は「9月までに決めようと思っていた」。だが、その段階でFC東京のJ1昇格は確定していない。トップカテゴリーでプレーしたいという願望が強かった。
正式オファーを最も早く提示して獲得に本腰を入れてくれたのはジュビロ磐田である。90年代後半から一時代を築いた歴史と伝統に偽りはなく、サッカーに打ち込める環境も素晴らしかった。同期の山村和也(現在は横浜F・マリノス)とともに練習に参加した際の雰囲気も好印象だったが、ネックは「東京から少し離れていること」。
最後に手を挙げたのが、最終的にプロ入りを決断する横浜F・マリノスだった。
「J1のチームに行きたかったし(大学の友人が多くいる)東京にも行きやすい。だから速攻で決めました。名門クラブという響きもいいじゃないですか。知り合いが誰もいなくて気まずかったですけど……」
冗談を真顔で言う男である。別稿で語ってくれた中村俊輔への憧れも背中を押した。明るい門出となるはずのプロ入りは、しかし、前途多難の始まりでもあった。
シーズン開幕直後、横浜F・マリノスはかつて2003-2004のリーグ連覇に大きく貢献したブラジル人DFドゥトラを再び獲得。左サイドバックのスペシャリストが先発出場するようになると、ピッチに立つことはおろか18人のメンバーから漏れるのが日常になった。
苦い過去を振り返る時も、さばさばとした表情だ。
「夏に五輪があるから大切な時期なのは分かっていたけれど、ドゥさん(ドゥトラ)が来たから一生サブだなって。それで1年目はあきらめていました。今みたいにすぐに移籍できる時代でもなかったし、何も変わらないから、完全に不貞腐れていました」
最終選考を兼ねたトゥーロン国際も「選ばれないことに勘付いていました」
出場機会はリーグ戦の合間に行われるナビスコカップ(現在のYBCルヴァンカップ)に限られ、コンスタントな試合出場から遠ざかっていった。コンディションは落ちていき、持ち味とするエネルギッシュなパフォーマンスは影を潜めていった。
そんな折、五輪代表チームを率いる関塚隆監督が横浜F・マリノスの練習試合を視察に訪れた。千載一遇のアピールのチャンスだったが、試合勘の欠如によるパフォーマンスの低下を露呈することになった。
「コンディションが一番悪い時期でした。セキさん(関塚隆監督)には『スタメンで出ていないと五輪代表には入れないよ』と言われて、何となく空気で察しました。五輪は無理だなって」
それでも5月下旬から6月上旬にかけて行われたトゥーロン国際大会のメンバーには選出された。ロンドン五輪へ向けての最終選考を兼ねた実戦機会である。
「トゥーロンの時も、オレだけは最終的に(五輪本大会のメンバーには)選ばれないことに勘付いていました。試合にも少し出してもらったけど、もちろんコンディションが悪くて全然ダメ。でも同世代の仲間とは仲が良かったから、最後の旅行くらいの気持ちで楽しみました」
結果は、案の定だった。発表の瞬間は東慶悟と鈴木大輔とともにカメラを向けられていたが、比嘉だけが選考から漏れた。落胆する様子や表情はほとんど演技で、内心は落選を悟っていた。
「選ばれると思っていて落選した選手もいただろうし、オーバーエイジが入ってきたことで押し出される格好の選手もいたと思う。でも、自分の場合、責任はすべて自分にある。だからセキさんには感謝しています。最後まで仲間の一員でいさせてもらえたから楽しかった」
次への行動は早かった。
メンバーたちの写真をかき集め、たった1人でビデオレターを作成。代表選出された同僚の齋藤学がロンドンへ発つ際に託した。
「みんなのことを応援していたし、チームのために何かやろうと思って。チームで試合にも出られなくて、とにかく暇だったんですよ。ビデオレターを作ることに集中していました。練習よりも集中していたかも」
豪快に笑い飛ばす彼は、誰よりも仲間思いかもしれない。
その後、五輪代表は初戦で優勝候補のスペインを破る快挙を成し遂げ、メダル獲得まであと一歩に迫る4位でフィニッシュ。チーム一丸となって戦うチームを下支えしたのは、最後の最後に落選の憂き目にあっても明るさを失わない“うちなんちゅ”だった。
藤井雅彦
ふじい・まさひこ/1983年生まれ、神奈川県出身。日本ジャーナリスト専門学校在学中からボランティア形式でサッカー業界に携わり、卒業後にフリーランスとして活動開始。サッカー専門新聞『EL GOLAZO』創刊号から寄稿し、ドイツW杯取材を経て2006年から横浜F・マリノス担当に。12年からはウェブマガジン『ザ・ヨコハマ・エクスプレス』(https://www.targma.jp/yokohama-ex/)の責任編集として密着取材を続けている。著書に『横浜F・マリノス 変革のトリコロール秘史』、構成に『中村俊輔式 サッカー観戦術』『サッカー・J2論/松井大輔』『ゴールへの道は自分自身で切り拓くものだ/山瀬功治』(発行はすべてワニブックス)がある。