現役続行ベテランFWがこだわる「11」 “カズ”が「ブラジルで3本の指に入る」…番号定着まで【コラム】
1月11日11時11分に発表
57歳のJFL(日本フットボールリーグ)アトレチコ鈴鹿FWカズ(三浦知良)のJ1横浜FCからの期限付き移籍期間の延長が、1月11日11時11分に発表された。すでに昨年11月に本人が26年1月末まで鈴鹿と契約があることを明かしていたが、カズがこだわる「11」並びの日に両クラブから正式発表された。
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背番号から愛車のナンバー、ロッカーや駐車場、練習用のビブスまでカズの代名詞ともいえる「11」。こだわる理由を「小さいころから憧れの番号で、自分も付けたいと思っていた」と明かす。
サッカーを始めた静岡・城内FC時代の憧れが、クラブの先輩だった渋川尚史氏。開催地が首都圏に移った1976年度の高校選手権に初出場し、圧倒的なテクニックで準優勝した時の静岡学園主将だった。「タンクさん」と呼ばれたリフティングの名手の背番号が「11」。「小柄なんだけどドリブルが巧くて、相手にとられない。ああいうふうになりたいと思ったね」とカズは話していた。
もっとも「11」への思いは、それだけではない。1986年にサントスFCと初のプロ契約をしたが、当時のブラジルでは背番号が固定制ではなく、試合ごとに先発の11人が1~11をつけていた。背番号は基本的にポジションを示し「11」は左ウイング。厳しいプロの世界で先発の座をつかまなければ「11」はつけられなかったのだ。
世界的な名門のサントスには、カズと同じ左ウイングにブラジル代表のゼ・セルジオがいた。高い壁になかなか出場機会が得られず、その後は地方のクラブへと移籍。少しずつ出場機会を増やして「11」を自分のものにしていった。
1988年には活躍が認められて専門誌「プラカー」の年間ポジション別ランキングで左ウイングの3位になった。王国ブラジルで3本の指に入る背番号11になったわけだ。カズ自身は「ブラジルでも、ずっと11番だったから」と簡単にいうが、実績もない若い日本人にとって「11」を背負い続けるまでの苦労は想像に難くない。
カズの番号変容…「24」「20」「11」
1990年7月に帰国して読売クラブ入りしたカズの背番号は「24」。希望した「11」は、すでに武田修宏がつけていたからだ。日本代表でも当初は「20」。読売で希望通りの「11」になったのは最後の日本リーグシーズンだった91-92年から、日本代表では92年のオフト監督就任から「11」に定着した。
日本リーグは1965年の創設当初から背番号は固定制だった。今では当たり前のシーズンを通して1人の選手が1つの番号を背負う形。もっとも、80年代までクラブの背番号が固定制だったのは世界でも珍しく、欧州でもオランダなど一部だけ。Jリーグは93年の開幕から「世界基準」に合わせて試合ごとに先発選手が1~11を着用した。
V川崎時代のカズは「11」だったが、それは絶対的なエースとして先発の座を守っていたからこそ。ブラジル時代、そしてJリーグの創成期では、先発で試合に出なければ「11」はつけられなかった。今も「スタメン出場」にこだわるのは「11」を背にするために試合ごとに努力してきた経験があるからかもしれない。
世界に合わせて「背番号変動制」にしたJリーグだが、皮肉にも世界は90年代になって次々と「固定制」に変わる。Jリーグも1997年から日本リーグ時代と同様の固定制に。これ以降は、シーズンを通して「11」がカズのために用意されることになった。シーズン途中の移籍などを除けは、常に同じ。「カズ=11番」が定着していった。
「11は自分のラッキーナンバー」
カズの背番号へのこだわりは、単に「11番が好き」というだけのものではない。固定制が普通になった今では考えられないが「背番号を手にする」ことが簡単でない時代にプレーしてきた。だからこそ、胸を張って「11は自分のラッキーナンバー」と言えるのだ。
昨シーズン、カズの所属するアトレチコ鈴鹿の試合を取材した。観客用に用意された駐車場を歩くと、スタジアムに近い場所に各地のナンバー「11」が3台並んでいた。いずれもカズファンの車のはず。プロ生活39年に渡って「11」にこだわってきたカズだからこそ、ファンのこだわりも強いのだと思った。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。