鹿島退任で「人生をどうしていくべきか」 苦悩→未知なる挑戦、異国で掴んだ成功【インタビュー】
ハノイFC、東京学芸大での成功体験…1年で自信を取り戻した岩政大樹監督
北海道コンサドーレ札幌の岩政大樹監督は、2023年末に鹿島アントラーズ指揮官を退任し、完全フリーの状態に陥った。(取材・文=元川悦子/全8回の5回目)
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「41歳の自分が放り出された形になり、その後の人生をどうしていくべきかを真剣に悩みました。2023年12月の時点ではすでに多くのクラブが翌シーズンの体制を固めていて、自分の入る余地は少なかった。コーチからやり直す道もあるけど、自分はできるなら監督を続けていきたいと思ったんです。
そんな時、ベトナム・スーパーリーグ(1部)のハノイFCからオファーが届きました。東南アジアのサッカー界は目覚ましい成長を遂げている。投資にも積極的で、海外からも優れたタレントを呼んでいて、日本人監督のニーズも高まっていました。
Jリーグで長く指揮を執った後、東南アジアに出ていく例はありましたけど、自分くらいの年齢の指導者が行ったケースは皆無に近かった。国内で狭いパイを争うより、外に出てマーケットを広げた方が今後の日本人指導者のためにもなる。僕は選手時代にタイに行った経験もあってメンタル的な障害もなかった。ベストな選択肢だと思ったんです」
岩政監督が言語化能力に秀でた指揮官だというのはすでに書いたが、外国人相手だと意思疎通のハードルは上がる。戦術を事細かく擦り込もうとしても思い通りにはいかない。そこで彼は「提示する情報の絞り込み」を徹底。シンプルなワードで伝えたのだ。
「『ローテーション』という言葉を鹿島でもよく使っていたんですけど、それを例に取ると、どんな動きなのかをまず理解してもらい、そこからプレーが広がっていくように仕向けました。選手たちはポイントを把握すれば、個性やストロングを生かしつつ自己発生的につながりを作り出していく。そのアプローチで成果が出たんです」
こう言った岩政監督は目を輝かせる。半年間の采配でリーグ3位、ベトナム・カップ準優勝という結果が出たことで、自分自身も「これでやっていける」と感じたのは確か。一度は失いかけた自信を異国の地で取り戻したのである。
もちろん「個の成長」という岩政監督にとって最も重要なテーマにも尽力した。言葉の壁はあっても選手個々と向き合えば、「キミたちをよくしたい」「大きく伸ばしたい」という情熱は必ず伝わる。もともと世話好きで「選手のために」という気持ちの強い岩政監督は自分のやり方が間違っていないことに気付いたという。
「『人に寄り添いたい』という僕のアプローチが間違っているのか……。その問いかけをずっとしてきましたけど、間違っていないとハノイで確信が持てたんです。鹿島の選手時代は『自分で這い上がるのが当たり前』という考え方だったから、そういうものだと思ってきましたけど、今のZ世代はそうやって放り出しても力を発揮しきれない。背中を押してサポートしてあげることで、より大きく成長していくんだと改めて感じました。
自分の鹿島選手時代の晩年を振り返っても、山村(和也=横浜)や昌子(源=町田)、植田(直通=鹿島)といった後輩たちを伸ばしてやりたいという気持ちが強かった。でもプロ選手である以上、そういうアプローチができないなと感じたから、32歳で外に出た。やっぱり僕自身はその頃から変わっていないんですよね(笑)。
新人監督として指導させてもらった鹿島で結果が出なかったのは、単に僕の手法が悪かっただけ。どこまで選手に話をするか、情報を伝えるかという整理がついていなかっただけ。その線引きがハノイで分かったのはすごく大きかった。僕にとってベトナムでの半年間は非常に大きな意味のある時間でした」
その確信がより強まったのが、2024年の夏から冬にかけて母校・東京学芸大学を指導した時だ。私立大の台頭によって、かつて強豪と言われた学芸大も近年は低迷。2024年は東京・神奈川リーグ1部での戦いを強いられていた。そこで、同期の新海宏成総監督・顧問、1つ上の桐田英樹監督の要請を受け、夏からコーチに就任。チーム立て直しの一翼を担ったのだ。
「情報を与えすぎずに要所要所でポイントを伝えることの重要性は、ベトナム人相手でも、日本の20歳前後の学生相手でも一緒。それを論理的に分かりやすくアプローチすることで選手を伸ばし、チームを強くできるという手応えを得られました。
学芸は半年間だったし、監督もいたので、全てを掌握したわけではなかったですけど、コーチとして全体を見つつ、何をどう改善していくかを僕なりに伝えました。
サッカー的なところで言うと、戦術的なまとまりと1人1人の役割を明確にさせたつもりですし、組織のマネジメントも大切にしました。誰がどういう立場でチームに関わるかをハッキリさせてあげれば、全員が自分のやるべきことに集中できる。そのあたりは僕が鹿島で足りなかった部分。誰に何を働きかけたらいいかが曖昧になっていたし、コーチングスタッフも最大の力を出せるように仕向けることができなかったんです。
その反省を生かしながら、学芸で取り組んだところ、関東3部復帰というポジティブな結果を残せた。1年前の自分とは見えるものが変わってきた。それは今後の監督人生の大きな糧になりますね」
リスクを冒して未知なる世界にチャレンジしたことで、幅広い思考と指導力を身に着けた岩政監督。偉大なキャリアを誇る元選手は旧知の関係者や古巣からの誘いで守られた立場や地位を与えられることが多いが、彼はそういったしがらみをかなぐり捨てて、新たな自分自身を構築しようとした。だからこそ、北海道コンサドーレ札幌指揮官というオファーを得るに至ったのだ。
こういう逞しい生き方は必ず選手たちの心にも響くはず。新たな環境で岩政監督がどんなアクションを起こすか見ものだ。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。