自ら這い上がって当然…“鹿島の文化”が「マイナスに働いた」 未熟さ感じた新人監督【インタビュー】
「選手は自ら這い上がって当然」鹿島の文化がマイナスに作用した新人監督時代
北海道コンサドーレ札幌の岩政大樹監督は、「プロ選手は自分の成功を第一に考えるべきもの」という思考へと大きく転換したことで、新人Jリーガー時代の難局を乗り越えた。(取材・文=元川悦子/全8回の4回目)
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だが、鹿島アントラーズを退団した2014年以降は再び「チームのため」「仲間のため」という本来のスタンスにシフト。彼の中には「際限なく上を上を目指すのは鹿島にいる間だけでいい」という考えがどこかにあったのかもしれない。常勝軍団を離れた後は違ったアプローチでサッカーと向き合いたかったのだろう。
2014年に赴いたタイ1部・BECテロ・サーサナ時代、2015~16年に在籍した当時J2のファジアーノ岡山時代は「自分が前向きな影響を与えて若い選手を伸ばし、チームを強くしたい」という意思が強く表れていた。
筆者は2014年10月にタイでプレーする彼の試合・練習を取材したことがあるのだが、当時の彼は21歳だったチャナティップ(現BGパトゥム)ら若手たちのことを「僕の弟子」と呼び、彼らを少しでも向上させようと躍起になっていた。
「タイの選手たちは戦術理解という意味ではまだ乏しい部分があるし、相手を分析した上で対策を考えることが非常に少ない。そこで僕は個人的に相手をスカウティングして、ピッチ上で伝えていくアプローチを試みました。
若い選手たちが僕の言うことを吸収しようという意欲を示してくれたのはすごく大きかった。前年に比べると総失点が20点くらいは減っているのを見ても、自分のやってきた成果が少しは出たのかなと思いますね」
このように語っていたこともあるが、発言はまさに監督そのものだ。この時点から指導者目線でサッカーを見て、アプローチしていたのだろう。
ナイトマッチの後、帰りの足が見つからずに困っていた筆者に「選手バスに乗っていいですよ」と声をかけてくれて、バンコクの繁華街・スクンビットまで送ってくれた時も「この人は物凄く面倒見のいい人だ」と改めて感じた。元日本代表のスター選手とは思えない庶民的な性格、親切な立ち振る舞いは、やはり人と関係が密で絆の深い島育ちというバックグラウンドによるところが大きいのだろう。
2022年に古巣・鹿島でコーチになり、レネ・ヴァイラー監督(現セルヴェット)の契約解除によって同年8月に指揮官に就任してからも「選手個々を伸ばしたい」という思いが彼から色濃く感じられた。
その反面、鹿島というクラブには「厳しい環境の中でも自分で這い上がるタフさや強さがなければいけない」という長年のカルチャーがある。それも身を持って熟知している岩政監督は、いかにして今の若い選手たちを扱うべきか苦慮したはずだ。
「僕らの現役時代を考えてみると、どんな厳しい批判を受けても、耳障りな文句を言われても、それを跳ね返して生き残ってきた選手だけが鹿島でレギュラーになれるし、日本代表になれるという構図でしたよね。
周りからどうこう言われても、前向きなマインドになれるかどうかは自分次第。他責志向にならず、常に自分に矢印を向けて取り組める強さがないとダメだった。それが昔のマネジメントだったと思うんです。
僕が鹿島の監督になった時、それを選手たちに求めようとしたんですけど、時代が変わり、若者の気質も変わっているという現実に気づいた。指導者として僕自身も未熟だったし、不足しているところもあったかなと思いますけど、鹿島の選手経験がマイナスに働いた側面も否定できないでしょう。
選手に寄り添って、親身になって対応するという、本来の自分らしいアプローチをもっとやってもよかったのかなという反省もありますね」
実際、岩政監督らの時代は選手同士がピッチ上で意見をぶつけ合ったり、議論を交わすのはごく普通のことだった。2006年ドイツワールドカップ(W杯)アジア最終予選・イラン戦直前の練習で中田英寿と福西崇史(解説者)がポジショニングを巡って主張し合っていた時も、監督のジーコは我関せずで、隣のピッチで次の練習の準備をしていたくらいだ。それが昔の日本サッカー界であり、鹿島の常識だった。
けれども、20年が経過した今、遠慮なく要求を突き付けるタイプの先輩がいたら、委縮して自分のプレーが出せなくなってしまう若手も少なくない。そういう人材が増えたからこそ、岩政監督のように人に寄り添える指導者がより必要になってくるのだ。
「鹿島ではタイトルをもたらすことができず、古巣に結果という形で恩返しできないまま1年半で退くことになりましたけど、僕にとっては貴重な経験になったのは事実。鹿島で初めてJリーグの監督をさせてもらったからこそ、見えたものが沢山あるんです。
契約が切れたちょうど1年前の今頃は、自分自身、本当にいろんなことを考えたし、何をしたらいいのかと迷ったりもしました。だけど監督になった以上、誰もが壁にぶつかるもの。鹿島での1年半を生かそうと思って、2024年は必死に頑張ってきましたね」
岩政監督が語気を強めるように、失敗しない指揮官はいない。2024年6月にSC相模原を離れた戸田和幸監督(解説者)も「サッカー監督の世界は勝ち負けで評価されるもの。ユルゲン・クロップやジョゼ・モウリーニョ、カルロ・アンチェッティ(レアル・マドリード)といったフットボールの歴史に名を残す偉大な監督も途中解任を経験している。9割5分が解任される厳しい仕事」と話していた。そこに身を投じた以上、毅然と前を向いて、突き進んでいくしかないのだ。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。