プロ1年目で絶望…母親に「俺、やめるかも」 先輩にも相談できず、鹿島でのギャップ【インタビュー】
常勝軍団で新人時代に感じた違和感、岩政監督が体得したプロで生き抜く術
北海道コンサドーレ札幌の新指揮官・岩政大樹監督が「世話好き」「面倒見のいい男」であることは前回も触れた。ただ、そのキャラクターがプロサッカーの世界で必ずしもプラスに働くかと言われれば、そうとは言い切れない部分がある。(取材・文=元川悦子/全8回の3回目)
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「プロだから、みんな『自分が成功したい』と考えるのは当たり前。特に10代の頃からエリートだった選手はそういう気持ちが強いんだろうと思います。ただ、僕は『周りをどう動かすか』とか『どう気を使いながらサポートするか』を第一に考えてやってきた。そのギャップに直面したこともありました」
その時期とは、ズバリ、東京学芸大学から鹿島アントラーズ入りした2004年。彼の大卒新人時代である。
20年前の鹿島はトニーニョ・セレーゾ監督が率いており、2002年日韓ワールドカップ(W杯)メンバーの鈴木隆行(解説者)や小笠原満男(アカデミー・テクニカル・アドバイザー)、中田浩二(FD)、曽ヶ端準(トップGKコーチ)といったタレントがズラリ。本田泰人、名良橋晃(ともに解説者)、大岩剛(U-21日本代表監督)らベテランもいて、22歳の岩政にしてみれば、なかなか自分らしさを発揮するのが難しかったのだろう。
「宮崎キャンプが終わった後、母親に『俺、やめるかも』と言ったのをよく覚えています。正直、若い頃はずっとやめたかった(苦笑)。感覚的にどうも合わなくて。1人1人が自分のためにやって勝利を目指す集団がプロなんだろうけど、自分はもともとそういう考え方じゃないし、本質的に違うかなと。もちろんその世界に入った以上、合わせないといけないし、その中で自分自身の力を示さないといけないと分かっていたんですけど、違和感というのはなかなか拭えなかったですね。
そんな感情をナラさんとか剛さんに打ち明けたことはないですね。先輩とかチームメイトに言えることじゃないから。あるとしたら母親とか今の妻くらいですけど、自分で解決するしかなかったですね」と当時の戸惑いを口にする。
それに加えて、岩政ら80年代前半生まれの面々は鹿島歴代メンバーの中で低く評価されがちだった。1つ上の深井正樹(駒沢大コーチ)、同い年の野沢拓也、1つ下の青木剛(南葛SCフットゴルフ選手)、田代有三(JFA国際委員)、中後雅喜(トップコーチ)らは年代別代表経験値などが乏しく、小笠原ら黄金世代、その上の世代のような華々しい存在とは位置づけられなかったのだ。
国内無冠だった2003~06年は「岩政らがグッと伸びないとタイトル奪還は難しい」とも言われており、凄まじいプレッシャーにもさらされていたのである。
「満男さんたちゴールデンエイジのことはリスペクトしていましたけど、彼らと同等だと認めてもらうためには、タイトル獲得はマストでしたね。2007年にタイトルを取るまではずっと言われていたし、自分なりに承知のうえで鹿島に入っていました。
ただ、ミスしたことで起きるブーイングとか批判が凄くて、そこに対して気にしてしまうところは少なくなかった。それを払拭しないといけないと思って1年目から取り組んでいましたね」
プロの壁に直面した岩政監督が飛躍のきっかけをつかんだのは、2004年9月26日のFC東京戦だ。当時の最終ラインは大岩と金古聖司(代理人)が統率しており、岩政はベンチを温める存在だったのだが、9月23日の清水エスパルス戦で金古が通算4枚目のイエローカードをもらい、累積警告になったのだ。
「この頃はまだ2ステージ制で、セカンドステージが始まってからはずっと剛さんと金古さんがスタメンでした。サッカーの世界は何かが起きない限り、センターバック(CB)は変わらない。そこに強い危機感を覚えたのは確かです。
『このまま行ったらずっとサブで今季が終わってしまう。となれば、2年目の2005年もサブからスタートすることになる。もう俺のキャリアは終わるぞ』と痛感して、何かを変えないといけないと強く思ったんです。
僕はナーバスなところがあるので、監督や選手の目、要求基準、評価など、いろんなことが気になったし、難しさを感じました。でも、活躍できなかったことの責任は全部自分に降りかかってくる。最終的には『岩政がダメだった』と言われるだけ。そうなるんだったら、たとえ失敗してもいいから思い切りチャレンジして、自分なりに納得できるプレーをした方がいいと割り切りました。
それが8月頃で、そこからはセレーゾに言われることを気にせず、自分で判断してプレーしてやろうと完全に振り切った。そこからセレーゾの見る目が変わって、9月の東京戦で初スタメンに抜擢され、その試合を1-0で勝って定位置を確保するに至った。人生最大のキャリアの危機を乗り切ることができたんです」
メンタル面の変化があったことを打ち明けた岩政監督。ここから2013年に退団するまでの10年間、彼は常勝軍団のCBの主軸に君臨し、7冠をもたらすことに成功した。
最後の半年は昌子源(町田)らの成長があって控えに回ったものの、ここまで長きにわたってコンスタントにプレーした選手もそうそういない。やはりポジティブなマインドがあったからこそ、厳しい世界で生き残っていけた。そのことは改めて強調しておくべきだろう。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。