両親の教育論「浴びながら育った」 同級生6人の島育ち→日本代表…新監督の幼少時代【インタビュー】
サッカー界屈指の言語化能力の背景、札幌新指揮官・岩政大樹のルーツとは
2024年はJ1で19位に甘んじ、2025年は9年ぶりのJ2で戦うことになった北海道コンサドーレ札幌。その指揮官となるのが、2010年南アフリカワールドカップ(W杯)日本代表の岩政大樹監督だ。
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岩政監督はご存知のとおり、2007~09年の鹿島アントラーズJ1・3連覇時の守備の大黒柱。常勝軍団の堅守を力強く支えた。その後、2014年に当時タイ1部のBECテロ・サーサナへ移籍。当時はまだ珍しかったトップ選手の東南アジア挑戦の先駆者となり、チャナティップ(現BGパトゥム)ら若手に刺激を与えた。
2015年には当時J2のファジアーノ岡山に加入し、2シーズンプレー。2016年限りで現役としての第一線に区切りをつけ、2017年に東京ユナイテッドで選手兼コーチに転身。そこから指導者のキャリアをスタートさせ、上武大学、鹿島コーチ・監督、ベトナム1部・ハノイFC監督を経て、今回のチャレンジに至っている。
この道のりを見ても分かるとおり、彼が「人と違う生き方」に強くこだわっていることが色濃く窺える。その独自性はどこから来ているのか。自分で単行本を執筆してしまうほどの言語化能力をいかにして養ったのか。今回、「人間・岩政大樹」を深堀りすべく、長時間のインタビューを実施。彼の43年間の人生を紐解いた。(取材・文=元川悦子/全8回の1回目)
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「僕の原点は瀬戸内海に浮かぶ山口県の屋代島で育った幼少期にあると思います」と岩政監督は言う。そこで改めて地図を見てみると、屋代島というのは、山口市、広島市、松山市の三角形のちょうど中間。大都市圏に出るにはやや遠いというロケーションである。
小さな島は当然のごとく人口も少ない。周防大島諸島全体では約1万7000人で、岩政監督が通った大島町立沖浦小学校は1学年わずか6人。大島中学校も同11人だったというから驚きだ。しかし、本人は島で育ったことに感謝する。
「人数が少ないので授業の時にはどんどん発表しなければいけないし、中学時代は生徒会長、サッカークラブのキャプテン、陸上部のキャプテンといろんな“長”をしていたので、あらゆる場所で代表として喋っていた。人前で何かを語ることに関してはすごく鍛えられましたね」
同時に家庭環境も大きかった。岩政監督の家庭は両親ともに小学校の教師。教育論や子育論を展開するのは日常茶飯事だったようだ。30年前をしみじみと述懐する。
「父は定時に仕事を切り上げて家に戻ったら仕事の話はしない人。母はそれとは対照的で20、21時までずっと学校に残って授業の準備をしたり、子どもたちにも厳しく接していて、教育者タイプでした。そんな2人が正反対の考えをぶつけ合うので、僕はそれを日々、浴びながら育ったんです(笑)。
そこで養われたのが、多様な価値観といろんなものをくっつけて新しいものを作り出す力なのかなと思います。そこがサッカーでトップに上り詰めようと一心不乱に努力してきた人との大きな違いかもしれない。当時の僕はサッカー選手になりたいなんて考えもしなかったし、それは『芸人になりたい』と言うのと一緒みたいなものだったですから。今みたいにインターネットもありませんし、数少ない情報の中で僕は僕なりに考えて行動を起こしていました」
Jリーグが発足した1993年は岩政監督が小学校6年の時。彼の家ではテレビを見る習慣がほとんどなく、Jリーグを見るチャンスも限定的だった。岩政少年は教師である両親の姿を見ながら、「自分は高校の先生になってサッカー部で指導をするんだ」と将来像をイメージしていたという。
「島育ちの少年にとって身近な職業と言うと、魚屋や八百屋、農家、商店くらいで、会社員でさえも遠い感覚だった。進学校へ行って、実家から近い山口大学か広島大学で教職を取るのが一番いいだろうと思ったし、それが自然の流れだと考えていたんです。
勉強は普通にやっていました。岩国高校の頃は通学に片道1時間半はかかるので、その時間を予習復習に充てていました。僕は朝練も始業前にやっていたので、家に帰って夜勉強することはなかったですね。そうやって時間を捻出しないと成績も落ちてしまう。それだけはダメだと思って自分をコントロールしていました。
かといって、物凄い読書家だったかというと、そうでもない(苦笑)。母はよく『本を読め』と言っていましたけど、本を読む楽しさに気づいたのは大学生になってから。作文もそんなに得意じゃなかったですね。実際、両親の作文指導は凄まじかった(笑)。課題を出されるたびに何回も書き直しさせられましたし、発表の時も言葉の使い方や間合いの取り方、視線の向け方まで口酸っぱく言われました」
本人がこう話すほど、岩政家の教育は本当に徹底されていたのだろう。「子供のうちから習慣をつけないと、大人になってからは身に着かない」とよく言われるが、本当にそうなのかもしれない。彼がサッカー選手を退いた後、複数の著書を出版するまでになったのも、当時の作文指導の賜物だ。彼自身も卓越した言語化能力とコミュニケーション力を厳しく養ってくれた両親に心から感謝しているという。
(元川悦子 / Etsuko Motokawa)
元川悦子
もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。