現役時代には「悪童」 偏差値70名門からプロへ…左膝に手を「イライラになる原因」【インタビュー】
川崎フロンターレOB森勇介氏が振り返る現役時代
かつて川崎フロンターレに6シーズン在籍し、主にサイドバックとして活躍した森勇介は今、アカデミーコーチとして川崎U-15生田を指導する日々を送る。現役時代、ラフプレーの多さから「悪童」との呼び名も。2018年に現役引退を発表し、プロ生活に幕を閉じた。サッカー王国清水で育ち、プロ入りした過程にはどんな出来事があったのか、改めてその過程を振り返ってもらった。(取材・文=江藤高志/全3回の1回目)
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現役時代のイメージが強い選手なだけに、指導者として結果を残しつつあると伝え聞いて興味が湧いた。「一緒ですよ、やってることは」。そううそぶく森の人生を左右したのが、サッカーが根付いていた静岡県の清水生まれだったということ。サッカーを選ぶのは自然な流れだったのだという。
「清水だから。野球とかより、みんなサッカーをやっていたから。普通の少年団で始めて昔は清水FCという選抜チームがあって、小3で試験を受けて合格して6年まで行った感じです」
その後、清水エスパルスのジュニアユースのセレクションに合格。ユースには上がらず進学することにしたという。
「その当時、プロを目指すという感じでもなかったですし、Jクラブのユースもそんなに盛んじゃなかったですし、あとはプロになれるとも思ってなかったので。親からも、大学に行けるように、しっかり勉強して進学校に行ったほうがいいんじゃない? という感じで、それで勉強もサッカーもってなったら、地元だったら清水東かなと思って」
その清水東高校の偏差値は68から70だったとのことで、まさに文武両道の高校進学だった。森は高校の3年間でサッカーに打ち込み「勉強はほぼ下のほうでしたよ」と話すが、「推薦がないので筆記試験で」合格した東京農業大学への進学が決定。サッカーを続けることになっていた。そんな森にヴェルディ川崎(当時)からのオファーが届いた。
「たまたま清水商業高校(現・清水桜が丘高校)で指導していた李国秀さんが、ヴェルディの総監督になるタイミングで見つけてくれたらしくて、声をかけてもらいました。普通にびっくりしました」
森は1999年に加入したV川崎を皮切りにベガルタ仙台、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)でのプレーを経験。そして2005年に川崎フロンターレに加入することに。当時から気性の荒さは知られていたが「ダメなんですけど」と前置きしつつ「やられたらやり返す。やられた時に黙ってはいられない。そんな感じでしたね」と回想。自分1人ではなく、チームメイトが削られても、闘志を燃やす。そんなタイプだった。
「変な奴も1人ぐらいいてもいいんじゃないかなと。全員真面目よりも」とも話す森を取材していた川崎時代に印象的な出来事があった。勝てなかった等々力での試合後。報道陣からの囲み取材が終わったあと、個別に話を聞いていた時に「こんなんじゃダメだ。こんなんじゃ優勝できない」とキツめの口調で悔しさを吐露した。
「そのこと自体は覚えてないですけど、正直」と断りつつ、森が口にしたのは優勝への強い思いだった。
「小学校、中学校年代は全国優勝もありましたけど、高校では全国に縁がなかったですし、プロの世界でも京都の時は天皇杯で優勝しましたけど、結局メンバーにも入ってなかったですし。自分のキャリアなんか別にそんな大したことなかったんですが、なんかそうやって優勝争いできる舞台に立てているのに、良い条件も揃っているのに、そこを目指さないのはありえないので」
川崎で6シーズン在籍もタイトル獲れず「優勝はしたかった」
森が川崎に在籍していたのは2005年から10年までの6シーズン。この間、リーグ戦で3度、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で2度の準優勝を経験しながらも結局優勝を手にすることはできなかった。
「優勝はしたかったですね」
J1でプレーしたのは2010年の川崎が最後。だから、森はJ1の優勝とは縁がなかった。
川崎から離れたあと「経営が苦しくてお金はそんなになかったですけど、でもヴェルディ好きなやつらが集まってた」という当時J2の古巣に戻り、やりがいを感じつつプレー。「正直J1も狙えるかなという感じで」プレーしていた森を悩ませ続けたのが古傷の膝だった。
「フロンターレの時もそうでしたけど、膝の怪我が思うようにいかなくて。フロンターレで手術した時(2008年)ぐらいから膝は一気にガクッと落ちて、ダメになって、全然戻ってこなかったんで。その歯痒さもありながらも、6年、7年ぐらいは一応ベストの状態ではなかったですけど、なんとかだましだましできて。でも、最後のほうは、年齢的にも身体が動かなくなるから。悪かったのは膝だけだったんですけど、思ったとおりに身体が動かないのが歯痒かったですね、ずっと。それもイライラになる原因でした」
膝の痛みに耐え、練習していた姿はよく見かけた。痛い左膝を頻繁に手で押さえていた。そんな膝の怪我とは高校時代からの付き合いだったという。
「もう高校の時からずっとそうだったので。週一ぐらいで新幹線に乗って浜松まで治療のために通っていたので。プロになって1年目にすぐに手術して。半月板で。そこからは本当に、ベストな状態に戻ることは一回もなかったですね。やっぱり高校の時が一番、身体が動いていたかなと思います」
痛かった膝は「曲げ伸ばしができない。まっすぐ伸びないし、曲がらないし。そうすると、可動域が出ないから、蹴る、走る時の動力もなくなる」という状態になる。痛み止めの注射が欠かせなかったという森は、「でも、普通だったら、かばったらどこか悪くなるけど、その時本当におかげさまで膝だけだったから、まだやってこれたかなという感じでした」と耐え抜いた自らの身体に感謝の言葉を掛けていた。
森はその後、FC岐阜、SC相模原でのプレーを経て、現役の最後は2018年の沖縄SVで迎えた。そこから指導者としてのセカンドキャリアが始まった。
[プロフィール]
森 勇介(もり・ゆうすけ)/1980年7月24日生まれ、静岡県出身。清水東高―ヴェルディ川崎―ベガルタ仙台―京都パープルサンガ―川崎フロンターレ―東京ヴェルディ―FC岐阜―SC相模原―沖縄SV。現役時代は闘志あふれるプレースタイルで、主にサイドバックとして活躍。2018年に現役引退し、指導者の道へ。今季から川崎U-15生田コーチに就任した。
【インタビュー第2回】子どもたちに「嫌われてもいい」 “悪童”が指導者へ…エリートの「鼻をへし折る」流儀
(江藤高志 / Takashi Eto)
江藤高志
えとう・たかし/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ大会観戦を機にサッカーライターに転身。当時、大分トリニータを率いていた石崎信弘氏の新天地である川崎フロンターレの取材を2001年のシーズン途中から開始した。その後、04年にJ’s GOALの川崎担当記者に就任。15年からはフロンターレ専門Webマガジンの『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営を続けている。