浦和には「厳しさがない」 在籍2年も根付かせた“プロ意識”…元日本代表DFが後輩へ示した背中【コラム】

キング・カズとマッチアップする井原正巳【写真:産経新聞社】
キング・カズとマッチアップする井原正巳【写真:産経新聞社】

浦和に加入した井原が歩んだ現役時代に脚光を当てる

「日本代表の練習に初めて呼んだ時は、ひ弱そうで不安になったが、向上心と探求心の高さに感心させられた」。2002年12月27日の横山謙三氏の言葉だ。続けて「精いっぱい努力したからあれだけ長い間、日本サッカーに貢献できたんだと思う。クレバーだし、試合の流れを読む力が抜群だった」と評す。この日、キャリアに終止符を打った浦和レッズ・井原正巳の引退会見があった。

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 横山氏は筑波大2年の井原を日本代表に初招集した時の監督で、02年は浦和のゼネラルマネジャー(GM)として強化と運営、財務面で手腕を発揮していた。まず、“ひ弱そう”とか“不安になった”と否定から入り、対極の褒め言葉で締めくくるのがこの人のお家芸だ。そうでなかったら1988年1月から2月、デビュー戦となった中東2カ国での国際Aマッチ3試合に先発起用するはずもない。

 井原は筑波大、日本リーグの日産自動車、Jリーグの横浜F・マリノスに在籍した12年間にわたり日本代表の門番として活躍。粘り強く忠実な守備は“アジアの壁”と称賛された。1996年から99年まで主将を務め、日本が初出場した98年のワールドカップ(W杯)フランス大会にも、アームバンドを巻いて列強と戦った。

 国際Aマッチ122試合出場は、12年10月16日に遠藤保仁(当時ガンバ大阪)が更新するまで、13年間も保持した歴代1位の記録だった。日本サッカーに偉大なる足跡を刻んで名声を博したわけだが、すべては横山氏の選出から始まった。井原にとっては生涯の恩人でもある。

 99年の浦和は不振を極め、年間15位に沈んで初のJ2陥落。失点は16チーム中3番目に多く、今でもチームの1試合最多失点記録として残る8点を失ったこともあった。横山氏は守備を再建する救世主として、チームを束ねる柱として井原に獲得を申し入れたが、残念ながらジュビロ磐田を選んだ。

 第1ステージこそ好調だった井原も、第2ステージでは鈴木秀人、田中誠、福西崇史とのポジション争いに敗れ、出場7試合にとどまる。浦和は苦しみながら1年でJ1に復帰し、指導者も外国人選手もブラジル体制へ移行。“アジアの壁”はそんな2001年、横山氏への恩義に報い、とうとう浦和にやって来た。「新しいチームをつくるので挑戦するにはいい機会だと思った」と述べた。

井原が提案した当時の新加入記者会見【写真:産経新聞社】
井原が提案した当時の新加入記者会見【写真:産経新聞社】

退場後も取材対応「2枚とも納得がいかない」

 2001年1月24日にチッタ監督らの就任会見があり、翌日に井原と3人の外国人選手が加入会見に臨んだ。クラブは井原だけの会見を考えていたが、「監督、外国人選手、僕が別々にやったのではクラブの負担になる。ブラジル人選手と同じ日にしましょう」と自ら提案したのだ。人柄の良さがにじむ楽屋話ではないか。

 2月4日から始まった鹿児島県指宿市での強化合宿中、井原を取材する機会が随分あった。そこで発した金言は、浦和の弱点を見事なまでに突いていた。

「マリノスでもジュビロでも、常に優勝を意識しているチームは厳しい姿勢で練習に取り組み、みんなが要求をぶつけ合っていた。今年は優勝しないと駄目だよな、なんて言葉が日常的に聞かれました。入ったばかりの僕が言うのもなんですが、浦和にはそういう厳しさがない」

 副主将に指名された井原は開幕戦から先発に名を連ね、3バックの右ストッパーから始まり、4バックの中央、終盤は3バックのリベロに定着。リーグ戦26試合、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)6試合、天皇杯4試合に先発した。

 このうちリーグ第4節の古巣横浜FM戦では、2度の警告で前半44分に退場。鹿島アントラーズとのナビスコ杯準々決勝第2戦でも、またもや前半44分に2枚目のイエローカードで退場となった。

 退場した選手というのは、早々にチームバスへ乗り込みメディアの前に現れないものだが、井原は違った。2試合とも堂々とした態度で記者の質問に答えている。ただ、鹿島戦はよっぽど悔しかったようで「正当なチャージだと思うので2枚とも納得がいかない」とぼやいた。

坪井の関係性「井原さんに教わりました」

 翌年はハンス・オフト監督から主将を任され、一貫して3バックのリベロを担当。10人の才気煥発な新人のうち、井原の背中を見て力を付けたのがDF坪井慶介だ。左後方にいる井原に見守られ、右ストッパーとしてリーグ戦全30試合にフル出場。ふたりはリーグ戦28試合、ナビスコ杯8試合で同じピッチに立った。

 磐田時代は静岡県内で家族と暮らしたが、浦和での2年間は寮で若手と一緒に生活。ここで彼らと積極的に触れ合い、自らの豊富な経験を聞かせ助言も授けた。加入2年目の鈴木啓太は「プロの心得を学んだのが一番大きい。日本代表の話も参考になった」と話していた。

 2004年第1ステージ第12節の名古屋グランパス戦だ。前半41分、トラップミスで球を奪われた坪井は、突進するマルケスに後方からタックル。得点機会阻止の反則で一発退場となった。浦和は後半の3失点で完敗し、初優勝の可能性が消えた。

「警告は覚悟したが、まさか退場とは……。チームに迷惑を掛けたので気持ちを切り替え、もっといいプレーができるようにしたい」

 さすがは井原の高弟だ。へこんでいたはずなのに、報道陣と気丈に向き合った。「こういう時こそしっかり記者と対応することを井原さんに教わりました。プロとはそういうものだと」。すがすがしい態度は井原にそっくりだった。

井原はたぐいまれなる人格者「僕のために忙しい思いをさせて申し訳ありません」

 04年1月4日、東京・国立競技場で開催された引退試合後の会見で、後継者にしたい選手を問われた井原は「坪井です。一緒にやって能力の高さを感じ、すごい選手になると思いました」と回答。既に日本代表だった坪井は、06年W杯ドイツ大会に2試合出場するなど、さらに力を伸ばしていった。

 引退試合は浦和、横浜FM、磐田の3クラブが主管だったが、運営はすべて浦和が切り盛りし、社員は年頭から泊まり込みで準備に当たった。そんな折、井原はホテルを訪ね「新年早々、僕のために忙しい思いをさせて申し訳ありません。ありがとうございます」と謝辞を述べた。横山氏への義理といい、加入会見での気配りといい、ちょっとしたことだが引退試合での気遣いといい、井原とはそういう男だ。

 たぐいまれなる人格者は「悔しさを次にぶつけ、常に高い目標を持って頑張ってきた。若い選手は毎日努力し、謙虚に上のレベルを目指してほしい。最後の締めくくりが浦和だったのは感慨深い」と言った。

 プロとは…。井原が浦和に突き付けたこのテーマこそ、家宝にすべきクラブの財産である。

(河野 正 / Tadashi Kawano)

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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