本田圭佑らの裏で「僕は試合にも出ていない」 反対押し切り浦和入りも…味わった挫折【インタビュー】
元日本代表MF細貝萌の半生、前橋育英から浦和入りも「すごく焦っていた」
2024シーズン限りで現役を引退したザスパ群馬の元日本代表MF細貝萌は、20シーズンにわたってプロキャリアを積み重ねた。そのスタートは浦和レッズだったが、あまりにも厚い選手層のクラブへの加入には周囲の反対もあったという。浦和で簡単には出場機会を得られないなか、同世代と目指してきた北京五輪の3連敗で感じたものは何だったのか。(取材・文=轡田哲朗/全6回の1回目)
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群馬県出身の細貝には2004年、地元の名門、前橋育英高校3年生になるタイミングを前にいくつかのクラブから獲得オファーが届いていた。その中で浦和と特別指定選手の契約を結んでサテライトリーグにも出場するようになり、「試合で使ってもらっていた経緯もあり、自然と浦和でプレーしたいと思った」のだという。
ただし、当時の浦和はクラブ創設から初タイトルを獲得した勢いで大型補強もあり、日本代表級の選手がずらりと並んだ。ボランチを見ても鈴木啓太、長谷部誠といった後に日本代表でも中心選手になった2人がレギュラーで、2000年シドニー五輪代表の酒井友之やチームキャプテンを務めた内館秀樹も在籍していた。
それだけに「選手層が選手層だった。世代交代を狙っているクラブからも実際にはオファーがあって、周りからは『どこからどう考えてもそっちの方が良いだろう』と言われることもあった」と、反対の声もあったという。
それでも「僕としてはたくさんのサポーターの前でプレーしたい気持ちと、できる限り素晴らしい選手たちがいるクラブで日々一緒に練習したいという気持ちで」高校卒業後の浦和入りを決めた。もちろん壁は厚かったが、ルーキーイヤーの最後には3バックの一角でチャンスを得た天皇杯でタイトル獲得にも貢献した。
しかし、2006年には誰もが認める実力者の小野伸二、2007年には阿部勇樹といったボランチでプレーできるスター選手が次々に加入。「もうなんか、本当に隙なしという感じだった」と苦笑したが、「日本代表クラスの選手たちと常に毎日練習ができたことで、試合になかなか絡めなかったけど、そういうレベルの高い選手たち、しかも現役の日本代表や五輪代表の選手と一緒に日々の練習をできた時間は間違いなくプラスだった」と振り返った。
充実しながらも出場機会が安定しない日々の中、2008年の北京五輪を目指す代表チームの活動には定期的に呼ばれていた。本田圭佑や長友佑都、岡崎慎司といった、のちに日本サッカーの歴史に名を残す存在と同世代だったが、「クラブで試合に出ていないのが僕も含め数人だった。みんなJリーグで試合に出ていたけど僕はなかなか出られていなくて、すごくもどかしかったのは覚えている。『試合にも出ていないのに呼ばなくてもいいよ』と思っている自分がいた時期もあった」という。当然、期限付き移籍も浮上していた。
「すごく焦っていた。浦和でメンバーが素晴らしいのは分かっていても、試合に絡みたいと思っていた。レンタルで欲しいと言ってくれたクラブもあったけど、ほかの出場機会の可能性の高いクラブに行って経験を積むより、それでも日本代表や素晴らしいブラジル人選手や外国人選手と日々の練習をしていく道を選んだ。
試合に出るのも大事だし、出ないと分からないことがあるのもそうだと思う。試合に出たいのはもちろんだけど、日々、日本代表の選手が隣にいて目の前でやっていることが魅力。あとは自分次第で、それをどう崩していくか。それができなければ、試合に出られなくて居場所がなくなって移籍だという話になるけど、そこを奪い取ってやると思ってやっていた」
雌伏の時は長かったが、北京五輪の開催される2008年には浦和でも出場機会を確保できるようになり、本大会へのメンバーにも選出された。しかし、3人まで許されるオーバーエイジ(24歳以上の選手)を使用せずに臨んだ若き日本代表を待っていたのは3連敗での敗退という厳しい現実だった。手も足も出なかった経験は、自身の中にあった思いをより強くするものになったという。
「当時は海外でプレーする選手も多くなく、(本田)圭佑がVVVフェンロ(オランダ)にいたけど、数は限られていた。オランダ代表にはオーバーエイジもいる中で、そういう世界の聞いたことのあるような選手を目の前にして、やっぱり自分らも海外に出ていかないと厳しいなと感じた大会だった。もともと海外に行きたいと思っていたけど現実的ではないなか、国際大会を通じてその思いが強くなった。日本サッカーのレベルがどうこうとまでは考えていなかったけど、そうでないと自分自身のレベルは上がらないなと感じた」
浦和で出場機会を確保するようになった中で、「正直、技術があるタイプでもスピードがあるタイプでも、体もない。技術というよりも気持ちを前面に出して戦うスタイルでやらないと生き残れない。ピッチに立った時の気持ちの部分では誰にも負けるわけにいかなかった」というプレースタイルは信頼を集め、サポーターから次世代のリーダーとして期待も受けるようになった。
ただし、細貝自身はプロになった初年度から海外移籍を視野に入れ、キャリアの中での希望に持っていた。それは数年後に実際の出来事になるが、反発や疑問の声も大きなものになった。
(轡田哲朗 / Tetsuro Kutsuwada)