J3で月給10万「Jリーガーと呼ぶのは反対」 元選手が苦しんだ現実とイメージのギャップ【インタビュー】
現役最後に2シーズン過ごした福島ではスクールの仕事をやらないと生活できなかった
2013年に佐賀東高からサガン鳥栖に加入した平秀斗(ひら・しゅうと)氏は2016年5月、ザスパクサツ群馬に育成型期限付き移籍で加入した。群馬では10試合に出場したものの、完全移籍はならず。シーズン終了後にはトライアウトを受験するも、すぐにオファーは届かず、実家に戻って祖父がやっていた“牛飼い”の仕事を手伝っていた。
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祖父も平氏に後を継がせるつもりで、いろいろなことを教え込んでいた。ところが、約2か月、まったくボールを蹴っていなかった平氏のもとに、この年からJ3に加わることが決まっていた福島ユナイテッドFCから練習参加のオファーが届いた。すでにサッカー選手としてのキャリアを諦めていた平氏に怖いものはなかった。
「この時は『引っかかれば、もう一回プロサッカーをやれるぞ』『これでチームが決まらなくても、牛飼いの仕事をすればいい』と割り切っていました。トライアウトを受けた時から失うものがなかったので、すでにいい意味で吹っ切れていて。背負うものが何もなくプレーできて、それが良かったですし、福島では数年ぶりにサッカーが楽しいなと思えるようになっていました」
新天地では忘れられないゴールも決められた。鹿児島ユナイテッドとのJ3リーグの試合、サイドバックとして出場した平氏は、地元の友人たちや家族も観戦に来た試合で驚異的なミドルシュートを叩き込んだ。
「普通、そこからシュートを選択することはあまりないと思うし、自分でも『そこから打っちゃうんだ』というのを打って、入ってしまいました。シュートには自信がありましたし、その時は『打てば入るんじゃないか』っていう感じで打ちました。ほかの人よりシュートレンジが広いのが武器だったので、それをプロの舞台で見せることができたこともよかったですね」
福島で2シーズンを過ごして、26試合3得点という数字を残した平氏だが、練習参加した段階で1シーズンで引退することを考えていたという。というのも、当時、平氏の選手としての給料は月10万円ほど。家賃と食費は払われていたものの、クラブから支給されるのは移動着と練習着のみ。スパイクやレガースなどは自分たちで購入する必要があり、サッカースクールの仕事も並行してやらないと生活できないほどの状況だった。
心にあった危機感「何年もプレーしていたらセカンドキャリアに出遅れる」
「とにかく1年だけやって、それでダメだったら牛飼いの仕事に戻ろうと思っていました。でも、1年目で怪我をして、このままだと意味がないと思って、もう1年やったんです。福島で2年目を過ごして『もういいかな』と思えました。それまでサッカーしかしてきていなかったから、サッカー以外に何もないんですよね。日本代表クラスで活躍した選手なら、その後の指導者としてのキャリアもあるかもしれませんが、J3で何年もプレーしていたらセカンドキャリアに出遅れると思ったんです。だから、2年目のシーズンが終わる半年前くらいには『今季で引退しよう』と決めていました」
現在、JリーグはJ1からJ3まで各20クラブが参戦し、全60クラブで構成されている。だが、そこでプレーする選手の年俸には、大きなバラつきがある。年俸120万円にも満たない額でプレーしていた平氏は「しんどかったですよ。でも、そのことを周りの人は知らないし『Jリーガー』として扱われるんです。その現実と周囲とのイメージのギャップもキツかったですね。当時より今は選手の待遇も改善されたかもしれませんが、僕は個人的にJ3の選手たちまでも『Jリーガー』と呼ぶのは反対なんです」と語る。
結局、平氏がプロサッカー選手として活動したのは2013年から2018年までの6年間だった。「そんなに活躍できる選手ではありませんでしたけど、僕はサッカー選手になることができて良かったと思います。いろんな人と出会い、いろいろな話もできました。若い時とかは全然、人と話をすることもできませんでしたが、話もできるようになりました。最近は『夢先生』として、自分が住んでいる中学校や小学校に行って、話をしたり、サッカー体験をしてもらったり、そういう活動ができるのもサッカー選手をやっていたからだと思います」。
「夢先生」の活動にも報酬は出るが、平氏はその報酬でサッカーボールを購入して、後日、寄付をしに行くのだという。サッカーを辞めたくなるような時期も過ごした平氏だが、「子どもたちにサッカーをやってほしいですし、子どもたちに夢を持ってほしいなと思うので。引退して、仕事しかしていませんでしたが、プロになるまでサッカーをしてきたのに、地元に帰って来てサッカーのことを何もしないのは無責任すぎるなと思ったんです」と言う。そして「夢先生」以外にも日常的に地元のクラブチームのスポンサーや子どもたち向けのサッカー教室も行っている。
自身が育った地域、そしてサッカーへの恩返しを続けている平氏だが、現在は『牛飼い』としてセカンドキャリアを歩んでいる。次回では彼のセカンドキャリアに迫る。(次回に続く)