元川崎ブラジル人FWのアイドル 23歳で生涯に幕…美的表現力にあふれた“伝説のドリブラー”【コラム】
【カメラマンの目】中村憲剛氏の引退試合にジュニーニョが参加
12月14日、川崎フロンターレ一筋でプレーした中村憲剛が引退試合を行った。J2リーグ時代に川崎へ加入し、このチームをJ1屈指の強豪へと仕立て上げたピッチ内のリーダーの引退試合には、多くの仲間たちが駆けつけた。そのなかに9年間の長きにわたって川崎を支えたブラジル人選手のジュニーニョもいた。中村同様にジュニーニョも川崎がまだJ2に所属していた時代に加わり、チームの歴史を作ってきた選手だ。
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ここで、ジュニーニョが川崎に所属していた当時の選手名鑑の本を持っている方がいたら、彼のページを開いてみてほしい。ジュニーニョのプロフィールのところで敬愛し、目標としている選手の欄には、デネルという名前が書かれている。
1977年生まれのジュニーニョの年齢なら、憧れの選手は同国のブラジルの場合、多くはジーコやロマーリオ、そしてベベットというのが一般的だと思う。だが、ジュニーニョの憧れの存在だったのはデネル。日本人ではよほどのブラジルサッカー通でなければ、馴染のない選手だ。実際、自分もデネルのプレーをライブで見たのは、93年にサンパウロ州の中堅クラブであるポルトゲーザに所属していたときの3試合のみである。しかし、そのプレーには強烈な印象が残っている。
デネルはアフリカ系で華奢に見えるほど細見の選手だった。身長は171センチと公表されていたが、彼をピッチ以外の場で間近に見る機会があり、そのときにはもっと小柄な印象を受けた。
試合以外で彼を身近で見たのは、サンパウロ市のあるホテルに用事で行ったときのことだ。丁度ポルトゲーザが試合を控えていてチーム全体で、そのホテルに宿泊していた。デネルは帽子の鍔を上に折り曲げて、少しサイズが大きめのシャツを着ていた。その服装から、ラップを奏でるミュージシャンという雰囲気があった。写真撮影をお願いすると、快くこちらに視線を向けて笑顔を作ってくれた。
ブラジル代表としてもプレー、23歳で突然生涯を閉じる
デネルの特徴は、巧みなボールテクニックで相手守備陣を翻弄するドリブルプレーにあった。30年近い前の記憶を思い返してみると、ドリブラーであるデネルの足さばきの技術は超一級品と言えた。
ただ、そのドリブルは足元にボールを置いたプレーばかりではなく、対面した守備陣の動きの逆をとり、タイミングで相手を交わす技術にも秀でていた。自分は間に合うが、敵の届かないところにボールを蹴り出して、ヒラリと身体を翻して交わすプレーも印象にある。
このプレーは1994年ワールドカップ・アメリカ大会でブラジルを優勝に導き、MVPに輝いたロマーリオが得意としていたドリブル突破と類似している。サッカーのあらゆる局面において、本能による一瞬の判断力で勝負するロマーリオが見せていた技に近い。それに加え、デネルはよりテクニカルな部分があり、軽快さがあった。言うまでもなくロマーリオが天才だったように、デネルも天才だったと思う。
デネルはパウロ・ロベルト・ファルカンが監督を務めていた91年にはブラジル代表でもプレーしている。存在が大きくなっていくデネルは93年の後半にリオ・グランデ・ド・スル州のポルト・アレグレ市に本拠地を置くグレミオにレンタルされ、そして94年にはリオ・デ・ジャネイル州の名門バスコ・ダ・ガマへと移籍する。彼がプレーしたこの3チームで背負ったナンバーは当然エースの10番。
順風満帆にサッカー選手として大成していく階段を駆け上がっていたデネルだったが、ここで思いもよらぬ悲劇が起こる。その存在がクローズアップされ、さらなる活躍が期待されていたデネルは、94年4月19日に友人が運転する車が事故を起こし、助手席にいた彼は突然、その生涯を閉じることになる。享年23歳の若さだった。
テクニックを駆使して相手守備陣を翻弄するドリブルはジュニーニョ
当時、デネルは彼が亡くなった2か月後の6月に開催される、W杯アメリカ大会のブラジル代表のメンバー入りを目指していた。ただ、当時のセレソンの状況は、70年メキシコ大会を最後に24年間もの長きにわたって優勝から遠ざかっており、世界チャンピオンの称号が渇望されていた。そのため監督のカルロス・アルベルト・パレイラは、いまでは一般的になっているがボランチを2人採用して守備的に戦う、内容より結果を重視するサッカーでアメリカ大会に臨んでいる。
そして、ブラジルはアメリカの地で頂点に立ち、W杯の歴史の空白をカナリア色に染め上げる。見事に結果を出したとはいえ、カルロス・アルベルト・パレイラ監督のもとでは、デネルのように一芸に秀でた選手がメンバーに選出されるのは、難しかったかもしれない。
それでも、セレソンの指導スタッフとは対極的に、デネルが活躍した90年代のブラジルでは、国民はまだサッカーに芸術性を求める思いが強かった。そして、デネルは人々が思い描く、限りなくブラジル的な選手だった。そのプレーでただひたすらサポーターを魅了する、サッカーの美的表現力にあふれた選手だった。
デネルを憧れの存在としていたジュニーニョのプレーの武器は、日本のサッカーファンなら知っているように、テクニックを駆使して相手守備陣を翻弄するドリブルであった。体格もデネルと似ており、ジュニーニョは憧れの選手のプレーを思い描き、その再現を考えピッチに立っていたのだと思う。
(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)
徳原隆元
とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。