中村憲剛の父から突如…「息子殴っていいから」 取り払われた“壁”、川崎の太陽に蘇る歓喜の記憶【インタビュー】
元川崎ジュニーニョ、盟友・中村憲剛と日本へ捧げたメッセージ
Jリーグで計11年プレーしたブラジル人のジュニーニョ氏は、2003年からの9年間を川崎フロンターレ、2年間を鹿島アントラーズで過ごし、特に川崎ではその圧倒的なスピードとテクニックでゴールを量産し、「川崎の太陽」と呼ばれた。
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その活躍を語るうえで欠かせないのが、すべての年月をともに過ごした中村憲剛氏とのコンビネーションだ。12月14日に行われた引退試合のために来日したジュニーニョ氏が語った、親友へのメッセージを紹介する。※インタビューは来日前のブラジル北東部サウバドールで実施。(取材・文=藤原清美)
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「僕は現役引退後、今もサッカーの世界に生きているんだ。サッカースクールを運営し、指導もしている。僕の情熱だからね。子供の頃からプレーしてきて、サッカーを離れるなんて、できることじゃない。一生をかけてやっていくよ」
彼の住むブラジル北東部は、選手輸出国と言われるブラジルの中でも、才能の宝庫として知られている。
「今は色々なプロジェクトも手がけようと、動き始めているところだ。特に僕らは日本にとても感謝しているから、今後も日本サッカーが成長していくためなら、何でもやりたいと思っている。今考えているのは、良い選手を送り込むこと。鹿島アントラーズでプレーしたフェルナンドもここが地元で、今は代理人をやっているんだ。
日本へ行った際には、何人かの友人たちとパートナーシップを結ぶための話し合いもする。そしてここに戻ったら、クオリティーの高い選手たちを育てていくんだ。プロとしてあるべき姿を伝えながらね。それに僕らはどんな人材が日本サッカーへ適応できるかが分かる。その選手の人間性、プレー面の特徴も含めてね」
ジュニーニョが日本への感謝を語るうえで、忘れられない瞬間がある。
「思い出すだけで鳥肌まで立ってくるのは、サポーターだ。というのも、僕はここブラジルでサポーターのプレッシャーの中でプレーするのに慣れていたんだよね。良い試合が出来なかった時には、そのプレッシャーはさらに大きくなった。
ところが、日本に行って、ある試合でチームが負けた時のことだ。スタンドのサポーターが、みんなで声援を送ってくれるのを見たんだ。『行くぞ! 次の試合で頑張ろう! 僕らはやれる!』……それが僕の心を揺さぶった。日本ではサポーターが支えてくれる。どんな時も一緒に戦う存在なんだ。それが心に刻まれているよ」
チームメイトたちとの友情も、大事な思い出だ。
「みんなと友情を築けた。川崎では慣れないところからスタートして、今だから言える笑い話をしよう。というのも、最初は言わないほうがいい言葉ばっかり教えたがるチームメイトたちがいるものでね(笑)。木村(誠)や森勇介には、いつも足元を救われた(笑)」
中村憲剛との共闘を回想…「彼を激しく怒鳴りつけたりしていた」
そんな中でも、彼がもっとも熱く語るのが、中村憲剛との日々の記憶だ。
「深い絆で結ばれていた。僕がフロンターレに入った2003年に、憲剛も大学を卒業して入団したのが、僕らの友情の始まりだ。彼には才能があったし、良いパスが出せて、強いパーソナリティーがある。違いのある選手だった。
僕はスピードを特徴とするフォワードだから、中盤で前を向いてプレーし、スピーディーにパスをくれる選手が必要だった。憲剛にはそのクオリティーがあると分かっていた。ボールを受けたら、前を向きながら、もうパスを出し始める。
だから、それを常に彼に要求していた。練習で要求し、試合ではアドレナリンが出るなかで彼を激しく怒鳴りつけたりしていた。彼はそれを受け止めたんだ。落ち込まなかった。その時はうつむくけど、それでもやろうとした。彼には学びたいという謙虚さと同時に、強さがあったんだ。
そうやって、僕らのコンビネーションが磨かれていった。見てみるといい、僕が何ゴールを決めたか。憲剛が幾つのラストパスを出してくれたことか」
ピッチの外でもエピソードがある。
「彼のお父さんと夕食に行ったことがあって、その時に言われたのが『息子に要求してくれ。言うことを聞かなかったら殴ってもいいから』と。それで笑ったし、仲良くなったよね。すでにそういうふうに接していたんだけど、『いつか僕に腹を立てるかも……』という思いだったのが、その夕食のあとでは『もう彼らとは家族だ』っていう意識に変わったよ」
「監督としても、日本代表に到達することを願っている」
こうして共闘した2人も、今や前述のとおり、ジュニーニョがサッカースクールを運営しながら青少年を育成し、中村憲剛はすでに最高ランクの指導者ライセンスを取得し、本格的に監督を目指す。
「僕の目標は良い人間であり続けること。それから、若い人たちが良い人生を送れるように導いていくこと。今の時代、サッカーだけに夢中になることが難しくなっているからね。僕らの時代で言えば、サッカーをすることが大きな目標だったし、それしか選択肢がなかった。でも、今の若い人たちには多くの選択肢がある。
だからお手本を示しながら、彼らが何かを達成したいと望むように導くこと。僕が達成できなかったような、もっと大きなことだってやれるんだから。それを僕の息子、ダニエウにも話しているんだ。僕が到達できなかったところに、彼が到達するのを見たい、と。
でも、そのためには、献身も謙虚さも必要だ。もっと良くなりたいという意欲も、勝ちたいという気持ちも。監督や両親の言うことをよく聞くことも。まさに憲剛がそうだったようにね」
最後に、日本に向けてメッセージを語ってもらった。
「まずは憲剛、今回の引退記念に招待してくれたこと、本当にありがとう。君や、君が長い年月をともにした仲間たちと一緒にピッチに立てたことを、本当に嬉しく思うよ。
それから、サポーターのみんな。僕にとっては、主にフロンターレとアントラーズのサポーター、それに、憲剛は日本代表としてプレーした選手だから、日本のすべてのサポーターには、これからも憲剛を応援し続けて欲しいと伝えたい。しかも、彼は今もサッカーのど真ん中にいる。彼が監督としても、日本代表に到達することを願っているよ。
僕らがよく使った“ガンバッテ”の言葉を贈りたい。僕が最初にフロンターレに入った時から、練習、試合ごとにこの言葉を聞いたんだ。ガンバッテネ、憲剛サン。
それから、ほかにも選手としての経歴を終え、ディレクターや色々な仕事を通して、サッカー界でセカンドキャリアを築こうとしている友人たち。今の道で色々と学んでいることは大事だよ。なぜなら、僕らはピッチの中で得た経験を伝えていく立場なんだからね。日本にいるみんなを応援している。イキマショウ!」
[プロフィール]
ジュニーニョ/1977年9月15日生まれ、ブラジル出身。バイーア―ヴィラ・ノヴァ―ウニオン・サンジョアン―パルメイラス(いずれもブラジル)―川崎フロンターレ―鹿島アントラーズ。Jリーグには通算11シーズン在籍。鋭い突破と決定力を武器に、川崎時代には中村憲剛とホットラインを形成。J歴代屈指の助っ人アタッカーとしてその名を轟かした。
(藤原清美 / Kiyomi Fujiwara)
藤原清美
ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。