トライアウト不合格で挫折…「ニート覚悟」もJクラブ就職 紆余曲折経て「通訳になったんだな」【インタビュー】
草サッカーの練習試合で運命を変える出会い
Jリーグには、華々しい活躍を披露する選手の陰でそれを支える数多くのスタッフがいる。酒井龍氏もその1人として、3季にわたりJ1の2クラブで英語通訳を務めた。きっかけは大きな挫折。高度な語学力の習得にも苦労した。言葉を武器にプレーヤーの力になるポストにはいかにして就くのか。実現までの道のりを訊いた。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治)
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「この時ばかりは自分の中にあるサッカーの“心の糸”がプツンと切れてしまったんです。そして、サッカーが嫌いになりました」
2018年の秋、筑波大学大学院1年生だった酒井龍氏はプロサッカー選手の夢が絶たれた瞬間をこう振り返る。大学4年間を同大蹴球部で捧げたもののプロ入りのきっかけを掴めなかったばかりか、大学院進学で夢を追う期間を伸ばしたにもかかわらずJクラブのトライアウトを受けて返ってきた結果は無情にも「不合格」だった。
それ以来、学校に通うも心ここにあらずの状態で授業は頭に入らず。サッカーのあらゆる情報をブロックし、グラウンドさえ目に入れたくないとの理由で通学路も変えた。「サッカー頑張ってる?」。事情を知らない友人からの連絡が胸に刺さった。
サッカーを失った今の自分に何が残っているのか……。そんな自問自答を繰り返していた翌年2月、酒井氏のもとに草サッカーの練習試合に参加してほしいと友人から連絡が。当初は断り続けていたものの、押しに負けて結局参加。これが人生を変える転機となった。
「Jリーグクラブの元サッカー通訳の方も参加していたんです。純粋な興味から仕事内容についていろいろと質問をしたところ、選手をサポートしチームと戦う貴重な戦力の1つだと理解できました。と同時に、自分の中で『ビビッ!』と来るものがあったんです」
大学在学中、チームメイトの誘いで海外留学生と交流の機会があったが、英語への苦手意識から会話できず。その悔しさもあり「話せたら……」と漠然ながら語学習得への憧れを抱いていたという。また、サッカーを嫌いになったとはいえ、プロに進んだ同期や後輩を気にかけないわけではなかった。俺だってサッカー界に何か爪痕を残したい――。競技への情熱と語学に対する興味がマッチし「日本一のサッカー通訳になる」という新たな夢が生まれた。
地獄のオーストラリア留学生活
通訳を目指すにあたり酒井氏が選択した言語は英語。もともと苦手意識があったとのことだが、スタート地点の語学力とは果たして。
「大学受験で学んだ英語がほぼすっぽ抜けていた状態でした。自己紹介も『I’m Ryu. I play soccer』みたいに3単語までが限界というか。リスニング力も壊滅的でしたね」
とはいえ、立ち止まるわけにはいかない。大学の留学センターに足しげく通い留学協定校が掲載されたパンフレットを手に入れると、英語圏の学校へ約50通「あなたの下で留学させてください」とメールを送った。すると、1通だけ「Fantastic!」と返事が。豪メルボルンにキャンパスを構えるビクトリア大学だった。
語学力向上へ渡豪するも、「地獄の留学生活でした」。英語力ほぼ皆無に加え、人見知りの性格が影響して英語で会話しようにも人の輪に入れない。無力感に打ちのめされ、ステイ先に引きこもる生活が続いた。それでも英語力向上は超重要ミッション。そこで試行錯誤の末に辿り着いたのが、“1人でもできる”勉強法だった。
「1つは『独り言英会話』。英語で独り言を1分ほど話し、それをカメラやボイスメモに録画・録音するという方法で、留学中にこれを毎日行いました。あとは、シャドーイング(音声を聞きながら即座に復唱する方法)。サッカーの言語も覚えないといけないわけですから、YouTubeから関連動画を選び、字幕を見ながらこれも毎日続けました。ほかにも勉強法はいろいろありますが、この2つはメインで行っていたものです」
そんな地道な努力を重ねること3か月。留学先で出場したサッカー大会が終わったタイミングにふと「口から英語が出るようになっている」と感じたという。しかし、酒井氏は1年の留学を終えて帰国する際について「英語である程度のコミュニケーションは取れるようになりましたが、自分の英語力に自信が持てていない状態」と説明する。「充実感よりも不安でいっぱいでした」。これにはプロサッカー現場の通訳になるにあたって、語学力以上のシビアな事情が関係している。
運とタイミングに左右される通訳の道
担当する監督や選手がいて初めて成り立つサッカー通訳の仕事は、そもそもクラブからの公募がない。そんなハードルを酒井氏はどのように乗り越えたのか。
「留学生活が半分過ぎたあたりから何かしなければとお尻に火がつき、まず起こした行動はJリーグクラブの通訳として勤務経験のある方から話を聞くことでした。知り合い経由で元ベガルタ仙台の通訳の方につないでもらい、具体的な業務内容、求められる資質や語学レベル、キャリアを始めるために必要なアクションなど気になったことを尋ねました」
帰国した9月以降は通訳をしていたサッカー関係者に実際に会いに行きヒアリングを重ね、脳内にイメージを作り上げていった。また、こうした行動の1つ1つは仕事への理解を深める以上に重要な意味を持つ。
「どれだけ準備しても、通訳になるのは本当に運とタイミングに左右されます。英語通訳が必要となった時、そのクラブ内で自分が候補に浮上するか。サッカー通訳のノウハウに関するヒアリングを続けていたわけですが、こうした努力を重ねていれば次第に存在が認知されていき、いざとなった時に声をかけてもらえる可能性も出てきます」
そんな酒井氏の努力が実を結んだのは2021年2月。Jリーグの各クラブは新体制でのキャンプを終え、シーズン開幕を控えていた。編成がほぼ固まっているため外国籍選手を獲得する可能性は極めて低く、この時「翌シーズンまでニートを覚悟していました」と話す。
それでも、サガン鳥栖が急遽アフリカ人選手2名と契約。英語通訳打診の連絡が酒井氏に寄せられ、二つ返事で3日後には鳥栖へ飛んだ。前年に柏レイソルに所属していたケニア出身のマイケル・オルンガ(現アル・ドゥハイル)がJリーグMVPに選出されるなど、日本サッカー界でアフリカ人選手への関心が高まっていたからこそ吹いた運の風だった。また酒井氏曰く、当時はチャンスにいつでも動けるよう「予定は必要最低限のものを除いて入れなかった」とのこと。身体の自由が約束されていた状況も味方した。
アジアを経て欧州へ
念願のサッカー通訳になるも、「最初の3か月は生きた心地がしなかった」と酒井氏。勝利を求め誰もが本気で臨むプロサッカーの現場の緊張感に圧倒された。通訳の現場経験ほぼなしで飛び込んだプロの世界。それでも「できない」「訳せない」という選択肢はない。実務を通し鍛えられながら、毎日を走り抜けた。
そうして迎えた2021年4月24日のJ1リーグ・FC東京戦。敵地で2-1と勝利したチームとともにピッチ上で集合写真を撮影した時、それまでの思いが一気にこみ上げてきた。
「スタンドの鳥栖サポーターを目にして『ああ、俺って通訳になったんだな』という気持ちが心の底から湧いてきたんです。ここがスタートラインなんだと思った瞬間でした」
そんな酒井氏は22年からアビスパ福岡に移り、翌年にはルヴァンカップの優勝に関わるなどJクラブのスタッフとして活躍を続けた。その後は7人制サッカー「キングス・リーグ」の日本代表責任者を経て、現在プロバスケットボール「EASL(東アジアスーパーリーグ)」の日本マーケティングマネージャーに。異色のキャリアが向かおうとしている先は?
「僕の目標は、プレミアリーグかブンデスリーガ、世界最高峰とされる場所で仕事をすることです。ただ、欧州リーグの選手は基本的に通訳をつけないため何か別のポジションを考える必要があります。そこで、現在はアジアを舞台に通訳以外のスキルアップや知識獲得に全力を注ぎつつ、欧州に渡っての将来的なサッカー界復帰も視野に入れています」
語学に引退なし。言葉のプロフェッショナルが新たな武器を引っ提げ、世界最高峰のサッカー現場へ飛び立とうとしている。
[プロフィール]
酒井龍(さかい・りゅう)/1994年8月16日生まれ、茨城県土浦市出身。筑波大学で蹴球部に所属し、同大大学院へ進学後にサッカー通訳になることを志す。大学院在学中にはオーストラリアのビクトリア大学へ留学。現地ではAリーグのメルボルン・ビクトリーとの共同研究を行ったほか、ビクトリア州2部クラブで選手としても活動した。卒業後の2021年J1サガン鳥栖、22年から23年にJ1アビスパ福岡英語通訳として活動し、福岡では23年のルヴァンカップ優勝を経験している。福岡退団後は7人制サッカー、キングス・リーグ日本代表「Murash FC」代表責任者を務め、現在はプロバスケットボール「EASL(東アジアスーパーリーグ)」の日本マーケティングマネージャー。また、YouTuberとしても活動し、「りゅうの留学英語チャンネル」登録者数は13万人超に上る。
(FOOTBALL ZONE編集部・山内亮治 / Ryoji Yamauchi)