50歳と共闘で感じた「ベテランの可能性」 14年W杯戦士は今季沼津で何を見出したのか?【コラム】

沼津の齋藤学【写真:Getty Images】
沼津の齋藤学【写真:Getty Images】

沼津“スーパーサブ”齋藤の今季を振り返る

 大宮アルディージャとFC今治がJ2に自動昇格した。現在カターレ富山と松本山雅FCの2チームがラスト1枠を競う形となっている2024年のJ3リーグで、前半戦は大宮とトップ争いをしていたのがアスルクラロ沼津だ。就任2年目の中山雅史監督はテクニカルなパスサッカーを構築したが、昨季同様に今季も後半戦に失速。最終的に10位でフィニッシュするという不本意な結末を強いられた。

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「前半戦はうまく戦えていましたが、後半戦に入って勝てない、勝ち切れない試合が続くことはまだまだ未熟。昨年の反省を踏まえてトレーニングをいろいろ見直し、質やスピード、強度を高めようと試みましたが、昇格は叶いませんでした。だまだ走り切れていない部分を感じたし、対策を取られてもパススピード、シンキングスピード、運動量の全てを上げないといけない。今後に向けてさらなるアプローチが必要だと思います」と指揮官は気丈に前を向いていた。

 現役時代は日本代表FWとして数々の大舞台を経験してきた大物監督は今、理想と現実の狭間で苦悩している様子だ。

 そんなチームで1年間、“スーパーサブ”として奮闘したのが、34歳の齋藤学である。2014年ブラジルワールドカップ(W杯)参戦経験のあるドリブラーは横浜F・マリノス、川崎フロンターレ、名古屋グランパス、水原三星(韓国)、ニューカッスル・ジェッツ(オーストラリア)、ベガルタ仙台でプレー。昨季限りで仙台を契約満了となり、本人も一時はキャリアに終止符を打つことも真剣に考えたという。

 それでも、年明けに練習参加の誘いを受けた沼津入りを決断。初参戦のJ3で想像以上の難しさも感じたようだが、34試合(うち先発2試合)出場2ゴール5アシストという悪くない結果を残すに至った。

「得点に絡むという意味では、数字以上のゴールに絡んでいたんでまあ良かったんですけど、自分としてはもっと先発で出たかった。その気持ちが強いですね。やっぱり途中から出るのは簡単じゃない。『流れを変える』『違いを作る』というのは毎試合毎試合ストレスというか、すごく疲れること。『10分、15分、20分で結果出せ』って言われる方がメンタル的な削られ方は大きいですから。僕自身ももうちょっと強くならなきゃいけないけど」

 本人も引退を返上し、覚悟を持って挑んだ1年間に複雑な感情を滲ませた。

50歳Jリーガーの凄さを実感「45分で6キロも走っちゃう(苦笑)」

 目に見える結果を残してスタメンに抜擢されても、それが長続きしない……。ジレンマを抱えた時期もあったという齋藤だが、そこで自身を奮い立たせてくれたのが、50歳・伊東輝悦だった。今季限りで32年間の長い長いキャリアに区切りをつけた大ベテランのサッカーに対する真摯な姿勢を目の当たりにして、「自分にはまだやることがある」と痛感したという。

「沼津に最初に練習参加した時、50歳目前のテルさん(伊東)がキツい練習を若手と一緒にやっているのを見て、『俺はもっと頑張らなきゃいけないんだな』と感じた。それがここに入る一発目のきっかけでした。シーズン中も、夏に一時的に怪我で休んでいた時期がありましたけど、それ以外はコンスタントに練習に臨んでいた。ユースと練習試合をしても45分で6キロも走っちゃう(苦笑)。それって考えられないこと。

 今まで40そこそこのドゥトラ(元横浜FM)と一緒にやったことがありましたけど、テルさんみたいな人は見たことがない。ホントに信じられなかったですね。それにテルさんとは感覚的にもすごく合うものがあった。持っている技術も今いる選手より秀でているものがあった。できれば、もっと一緒にやりたかったなと思いますね」

 しみじみとこう語る齋藤。彼はこれまで横浜FM時代の中澤佑二氏や中村俊輔氏(横浜FCコーチ)、川崎時代の中村憲剛氏(同クラブリレーションズ・オーガナイザー)、仙台時代の梁勇基(同クラブコーディネーター)といった年長者たちと共闘してきたが、それぞれの引き際を脳裏に浮かべつつ、ベテランになった自分自身のあるべき姿というのも模索してきたようだ。

「俊さんとかボンバー(中澤)は引退する年に一緒にプレーできなかったけど、憲剛さんだったり、リャンさん(梁)の最後は近くで見ました。2人は『来年もやれるのに』という状態で辞めることを決断した。それはテルさんもそうですね。本人たちからしたらもうキツいのかもしれないけど、僕自身にとっては間違いなく財産になる。本当に有難かったです。やっぱりベテランになると、自分の感情を出すべきなのか、我慢してニコ二コしてチームのことに徹するべきなのかというのは、すごく考えました。

 今年はスタメンで1試合出て、またすぐベンチになることが多くて、複雑な感情が出ちゃったりすることもあったけど、バランスを見極めることも大切。まあ僕は結構、自由にやらせてもらっていた方なのかなとは感じます。ただ、今年はもう終わりだし、次は新しいスタートライン。来季、自分がどうなるのかはまだ分からないけど、いずれにしても、もっと出場時間を伸ばしたい。そういう気持ちが強いですね」と齋藤は30代半ばの選手らしい悩みを打ち明ける。

「元気と似ている?」冗談交じりに答えた齋藤の真意

 彼とともにザックジャパン時代に日本代表入りし、2013年東アジア選手権(韓国)などで共闘している原口元気(浦和レッズ)も同じような難しさを吐露していた。かつて日本のトップドリブラーとしてグイグイと局面を打開し、ゴールに直結する仕事をしていたアタッカーは、年齢を重ねるとそういう仕事のできる回数や時間が減りがちだ。結果として、ベンチスタートが多くなり、自らのエゴを出したいのに出せないという状況に陥るケースも増えてくる。

「元気と似ている? 俺、あそこまでぶっ飛んでないですよ」と本人は冗談交じりに語っていたが、彼らは「若手をサポートするベテラン」という位置づけが似合わないタイプ。尖った個性があるという部分で共通している。やはり齋藤は“火の玉小僧”としてどこまでもグイグイと前へ前へと出ていき、チャンスメイク、あるいはゴールに突き進んでいくべき選手。そういうストロングを2024年は出し切れたとは言い切れないだけに、2025年はピッチで齋藤らしさを遺憾なく発揮するべき。それが理想的ではある。

 彼ら1990年初頭生まれの選手が1人、2人と表舞台から去る時代になりつつあるが、さまざまな経験をしてきた分、齋藤にはまだまだ粘り強く現役を続けてほしいところ。川崎時代に共闘した4つ上の家長昭博がフル稼働しているのだから、その背中を追うことはできるはずだ。

「今年は1回もリハビリ組に入らなかったんだよね。ところどころ痛いところもあるし、節々が痛いというのもあったけど、ちゃんと練習して試合に入れる状況で1年過ごせた。それはいいこと。とにかくもっとピッチに立てるように頑張りたいです」

 2025年の齋藤が果たしてどうなっているのか。中山監督続投の決まった沼津の背番号19として異彩を放つのか。それとも別の環境に赴くのか……。見る者を魅了できるストロングを持つ男のこの先の動向から目が離せない。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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