脳裏に焼き付く「あのゴール、見ていたよ」 本田圭佑のこぼれを…偶然じゃない、最初で最後の得点【コラム】
細貝萌が思い起こす2011年の韓国戦の記憶
元日本代表MF細貝萌が今シーズンをもってスパイクを脱ぐ決断を下した。浦和レッズから挑んだヨーロッパではブンデスリーガ1部と2部の計4チームでプレー。その後はトルコ、柏レイソルを経てタイへと渡り、生まれ育った前橋市を含めた群馬県全県をホームタウンとするJ2のザスパ群馬でキャリアに終止符を打つ。20年におよぶ現役生活で公式戦424試合に出場してきた。
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日の丸を背負った戦いでは、A代表ではザックジャパン時代を中心に30試合に出場。2008年の北京五輪に臨んだU-23日本代表で年代別代表を卒業するまで、2002年のAFC・U-17アジア選手権を皮切りに常連を担ってきた細貝がピッチに立った回数は、トータルで500試合近くに達する。
そのなかで、もっとも記憶に残っている試合をひとつあげるとすれば。12日に前橋市内のクラブハウスで行われた引退会見。細貝が万感の思いを込めてあげたのは、浦和でも柏でも群馬でもなく、ましてやバイヤー・レーバークーゼンやヘルタ・ベルリン、シュツットガルト時代のブンデスリーガでもなかった。
「僕自身、自分が出た試合に関してはかなり覚えているんですよ」
開始早々から涙で何度も声を震わせた質疑応答で、こんな断りを入れながら細貝が明かしたのは、A代表通算5試合目の出場となった、2011年1月25日の韓国代表とのアジアカップ準決勝だった。
カタールのサーニー・ビン・ジャーシム・スタジアムで行われた宿命の対決で、細貝は1-1で迎えた後半42分からMF香川真司に代わって途中出場した。
「2011年のアジアカップ準決勝で、本田圭佑選手が蹴ったPKのこぼれ球を詰めた自分のプレーに関しては、いまでも『あのゴール、見ていたよ』といった感じで、どこへ行ってもたくさんの方が覚えていてくれる。ザスパ群馬だけでなく、ほかのクラブの選手たちからも『見ていましたよ』と言われる機会が多かったですし、そういった状況も踏まえて、あのゴールは自分のなかで特別なゴールだったと思っているので」
ゆえに韓国戦が、細貝の記憶のなかでもっとも色濃く残っている試合となる。サッカーファンの記憶にも刻まれている、細貝のゴールが生まれるまでの経緯を再現すれば、まずは本田のスルーパスを受けたFW岡崎慎司がペナルティーエリア内に侵入した直後に、DFファン・ジェウォンに倒されたプレーに行き着く。
キッカーを任されたのは、PK職人のMF遠藤保仁ではなく本田。細貝はこのとき、ボールをセットする本田の左斜め後方に、敵味方の選手を含めてゴールからもっとも遠い位置にいた。ゴール左を狙った本田のPKのコースが甘く、現在は川崎フロンターレでプレーするチョン・ソンリョンに止められた直後、まるでPKがセーブされるのを見越していたかのように、スプリントをはじめていた細貝が敵味方をごぼう抜きにして、ペナルティーエリア内へ侵入していった。
遠目にいたのは、十分な助走から加速をつけるため。わずかにこぼれたボールの間合いに真っ先に入った細貝の左足が、必死に体勢を立て直したソンリョンよりも早くボールにヒットさせた。ボールに続いてゴール内へ転がり込んだ細貝のもとへ、本田が、そして岡崎が雄叫びをあげながら抱きついてきた。
PK失敗を帳消しにしてくれた細貝へ本田は「(ゴールを)プレゼントしてやったぞ」と冗談まじりに感謝の言葉をかけた。細貝の一撃で勝ち越した試合は、延長後半の終了間際に韓国に追いつかれたものの、2-2で突入したPK戦を守護神・川島永嗣の活躍もあって3-0で制した日本が決勝進出を決めた。
延長戦の末にFW李忠成が決勝ゴールを叩き込み、オーストラリア代表を破って4度目のアジア制覇を達成した決勝では細貝に出番は訪れなかった。それでも、死闘と化した準決勝で輝きを放った瞬間を、当時は浦和から完全移籍したレーバークーゼンをへて、2部のアウグスブルクへ期限付き移籍していた細貝はこう振り返る。
「よくよく見てみると、あのシーンに関しては自分がずっと積み重ねてきた自分らしいゴールだったのかなと思っています。PKのこぼれというのは浦和にいた時からずっとああいう詰める形を狙っていて、ああいうボールは基本的にはこぼれてこないものだと思いますが、サッカー人生20年終えて振り返る中で、日々積み重ねてきたからこそ大切なたった一度のチャンスで自分のところにこぼれてきたことにつながったのかなと、あのゴールに関しては自分らしかったと思いますし、自分を褒めてあげたいと思います」
たとえ無駄走りになったとしても、まったくかまわない。愚直な努力の積み重ねが、いつかはゴールを含めた成功として報われる可能性は決してゼロではないと証明できたからこそ、いま現在のサッカー界だけでなく、未来を担う子どもたちへのメッセージにもなる。だからこそ、細貝は記憶に残る一戦として韓国戦を選んだのだろう。
1986年6月に生まれ、今年で38歳になった細貝の同学年には本田をはじめ、いま現在も森保ジャパンに名を連ねるDF長友佑都や川崎で主軸を担うFW家長昭博がいる。FW興梠慎三やDF森脇良太、MF梅崎司は今シーズン限りでの引退を表明し、岡崎はひと足早く現役生活に別れを告げている。
長く切磋琢磨し合い、お互いを高め合ってきた仲間達への感謝の思いも引退会見では語っている。
「ここ最近は興梠選手や森脇選手、梅崎選手と引退する選手たちがすごく身近で、少し前には岡崎選手もそうですし、ちょっと引退とは違いますが、本田選手とも電話などで話をします。たくさんの素晴らしい選手たちに囲まれたと思っているし、彼らがそれぞれのクラブで頑張っている姿を見ていたからこそ、僕も『自分がこれではダメだ』と常に自分に言い聞かせてきた。これも自分が頑張ってこられた理由のひとつだと思っています」
記者会見は2部構成で行われ、引退会見となった第1部ではスパイクを脱ぐ理由として、今シーズン半ばの段階で3試合すべてが途中出場、プレー時間の合計がわずか18分間にとどまっていった点をあげた。
「20年間サッカーをやってきて、これだけ試合に絡めないのはルーキーイヤーを含めてもなかなかなかった。この状況を考えると『そろそろなのかな』という思いが自分のなかにずっとあった。かといって、違うクラブでサッカーを続ける選択肢も自分はまったく持ちあわせていませんでした」
続けて行われた第2部では、来年2月1日付けでJ3へ降格する群馬の社長代行兼GMに就任し、同4月の株主総会を経て、代表取締役兼GMへと肩書きを180度変える決意と覚悟が語られた。
「僕がこのクラブを大好きだからこそうれしかったし、(打診を)光栄に感じました。県全体のサッカーが成長していかなければいけないと思っていたし、責任ある立場で群馬をよくしたい、という思いで引き受けました」
本田を含めた同世代とはまったく異なるセカンドキャリアを、細貝は歩みはじめている。38歳の青年社長のなかではカタールの地で13年前に記録と記憶に刻んだ、継続は力なりの成功体験が力強く脈打っている。
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。