アジア杯敗退→10戦負けなし 士気上がらず…森保監督がチームを立て直した2つの“秘策”【コラム】

アジア杯敗退も10連勝で2024年を締めくくった森保ジャパン【写真:Getty Images】
アジア杯敗退も10連勝で2024年を締めくくった森保ジャパン【写真:Getty Images】

2024年の森保Jの戦いを振り返る

 2024年の日本代表の活動が終わった。

 1月1日のタイ戦から始まって、非公開だった1月9日のヨルダン戦と不戦勝になった3月26日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)戦を除いて年間15試合。これは2023年が10試合だったことを考えると、チームの成熟度を上げるにはいい機会となる年だった。

 だが残念ながらその目論見は初めから崩れることになる。

 1月14日のカタールアジアカップ初戦、日本はベトナムを相手に10分、南野拓実が先制点を挙げるものの、15分にはCKから、32分にはFKのこぼれ球を押し込まれて一時は逆転された。44分、南野のゴールで同点に追いつき、前半アディショナルタイムには中村敬斗のシュートで逆転に成功する。後半に入ってもなかなかゴールが生まれず85分、上田綺世が決めて4-2と勝利を収めた。だが、結果的にこのグループの最下位になったベトナムに2失点を喫するなど、すでに先行きに暗雲が立ちこめた。

 1月19日のイラク戦ではそんな不安が的中する。5分、前半アディショナルタイムとゴール前で相手選手をフリーにして2点をリードされる。日本は後半アディショナルタイムにCKから遠藤航が決めて1点を返すものの、1992年の広島アジアカップ以来、グループリーグでの敗戦となってしまった。

 1月24日のグループリーグ最終戦、インドネシア戦では6分、51分と上田が得点を挙げ、さらに86分には相手オウンゴールが生まれて日本は3-0のリードを奪った。ところが後半アディショナルタイムにロングスローから失点を喫し、グループリーグで失点しない試合はないという不安定さだった。

 1月31日、ベスト16でバーレーンに対戦する当日、週刊誌が伊東純也のスキャンダルを報じた。この件は結局8月に不起訴となったが、それまで日本代表の右サイドで活躍を見せていた選手は、この日から9月にワールドカップ・アジア最終(3次)予選が始まる前まで外れることになる。それでも日本代表はバーレーン戦を3-1とモノにする。ただし、63分にはオウンゴールで1点を失ってしまった。

 そして2月3日の準々決勝、イラン戦を迎えた。グループリーグ2位になってしまったため、ベスト16から中2日というタイトな日程になってしまった日本だったが、それでも28分、守田英正のゴールで先制。だが後半に入ると次第に運動量が落ち、55分に同点にされると90+6分には痛恨のPKで1-2の敗戦となった。

 この敗退の原因は何だったか。一番の大きな要素は、選手たちが所属するヨーロッパ各国のリーグを行っている間に大会が開催されたことだ。1か月以上所属チームを離れることになり、スタッフによれば「選手はやはり自分のクラブの試合をチェックしています」ということだった。自チームでのポジションを失うかもしれないという不安を抱えつつ日本代表で戦っていては腰が入らない。「なかなか(気持ちが)上がってこない」と漏らすスタッフもいた。

 また、そんな状況下だった選手たちをアクティベーションできなかったというのも敗因の一つだろう。ワールドカップを戦い、2023年にはドイツとアウェーで戦ったような選手たちがアジアカップでモチベーションを上げるためには、もっと刺激が必要ではなかっただろうか。

森保監督がとった3バックの策

 そんな日本の目を覚まさせてくれたのは、3月の長友佑都招集と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だった。長友は積極的にコミュニケーションをとって選手間をつなぎ活気を取り戻させた。またとにかく相手の情報が少なく過去の対戦でも緊迫した戦いになっていたこともあって、選手たちには緊張感があった。

 実際、3月21日のホームゲームでは試合の立ち上がりから高い集中力を見せた日本が2分に田中碧のゴールで先制する。だが、その後はなかなか相手ゴールを割ることができない。そして1-0のまま試合終了となる。

 ところがここで思わぬ事態が生まれた。防疫を理由に相手国への入国が禁止となり、そのため国際サッカー連盟(FIFA)は日本の3-0勝利という裁定を下したのだ。そしてこの結果、日本の最終(3次)予選進出が決まった。

 今年、森保一監督にとって一番難しかったのはこのあとだろう。6月の2次予選、ミャンマー戦とシリア戦は消化試合になってしまった。ヨーロッパのリーグが終わったばかりの選手たちは緊張の糸が切れてしまっているかもしれない。そんな状況で、前回対戦のときはともに5-0と勝利している相手にどう選手たちの集中力を高めるのか。森保監督がとった策は、それまでオプション的に使ってきた3バックを採用することだった。

 2024年のそれまでのすべての試合はメンバーこそ違ってもすべて4バックでスタートした。2022年カタールワールドカップの際は、グループリーグ初戦のドイツ戦の後半から3バックに変更したがコスタリカ戦では4バックに戻した。グループリーグ第3戦のスペイン戦、ベスト16のクロアチア戦と3バックで挑んでいる。

 そのころの森保監督は「4バックから3バックへの変更は比較的簡単」「自分が得意なのは3バックだから、4バックのトレーニングを多くしている」と語っていた。慎重にスタートするときは4バックにして、状況に応じて3バックに変更するというやり方を採用していた。

 森保監督はカタールワールドカップ後も4バックをメインとした戦いを続ける。2023年9月10日に行われたドイツ戦も4バックでスタートして勝利をつかんだ。サイドバックがボランチの位置に入ってくるフォーメーションも4バック。「自分たちでよりボールを保持する」というスタイルは、当初の考えなら4バックが前提だったと言えるだろう。

 その森保監督が方向を一気に転換した。そして3バックの動きを整理するためには、ミャンマー、シリアはいい相手だった。ミャンマーには中村が2点、小川航基が2点、堂安が1点を奪って5-0。シリアには上田、堂安、南野、相馬勇紀、そしてオウンゴールで、こちらも5-0と大勝したのだった。

 この戦術の変更に加えて、選手間の熱を上げてくれる長友の招集というのが指導者としての森保監督の腕だと言っていい。形而下のフォーメーションという分かりやすい部分に手を加えるだけではなく、形而上の選手の感情という部分にも手を入れた。3バックへの変更と、ベンチに入れなくとも3月以降ずっと長友が呼ばれ続けているということがその後の日本代表を支えている。

(森雅史 / Masafumi Mori)

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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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