アテもなく口にした強がり、増えた愚痴や文句のメール 夢破れた海外挑戦で学んだ“教訓”【インタビュー】
「偉そうに『海外行ってくる』って言ったのに……。チームも決まらず、帰国するのがすごく嫌でした」
今から15年前、まだわずかな日本人しかプレーしていなかった欧州のサッカー界に果敢に挑んだ1人の男がいる。ジュビロ磐田、ベガルダ仙台でプレーした太田吉彰氏。2009年7月に磐田を退団し、海外でのプレーを夢見て単身、海を渡った。だが、待ち受けていた現実は残酷なものだった。激動の5か月間で受けられた入団テストは3クラブだけ。夢破れて、移籍先が決まらぬまま、日本への帰国を余儀なくされた。(取材・文=福谷佑介)
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ベルギーのKVメヘレンの入団テストで不合格となった太田氏はすぐにシェンゲン圏外のイギリスへと戻った。そのままヨーロッパに留まることも考えたが、それはルール上、絶対に不可能。「すごくイライラして、(関係者と)大喧嘩しながらイギリスに帰りましたね」。シェンゲン圏内に滞在できる日数はあと1日しか残っておらず、他のクラブのテストを受けることは不可能だった。日本に帰るしか選択肢は残っておらず、気持ちの整理もつかないまま、海外移籍は諦めざるを得なかった。
欧州滞在の終盤は精神的にもだいぶ参っていた、と言う。「今はこうやって話せますけど、当時は精神的にすり減っていて相当キツかったです。自分が情けなかったですし、周りのせいにしたくなることもあったし……。自分が卑屈な感じになっていて、あの時の自分って本当に最悪だったと思います。人に会いたくない、会ったところでどうするんだ、と」。あると信じて疑わなかった移籍先。連絡をくれる友人、知人にも「もうすぐ決まるよ」と言って強がった。ただ、突きつけられた現実は残酷だった。月日が経つにつれ、日本に送るメールにも愚痴や文句が増えていっていた。
イギリスから一度、ドイツを経由し、お世話になった人たちに日本への帰国の報告と挨拶を済ませた。「どこもチームもなく、日本に帰ってからのチームのアテもない状況で……。ダメだったなっていうのと、恥ずかしさもありましたね。磐田のサポーターの前で喋ったのも覚えていますし、偉そうに『海外行ってくる』って言ったのに……。チームも決まらず、帰りたくないなって、帰国するのがすごく嫌でした」。息巻いて出ていったにも関わらず、結果的に挑戦は失敗。帰国後にプレーするアテもないまま、日本行きの飛行機に乗り込んだ。
約5か月ぶりに降り立った日本。まず感じたのは、なぜか“安堵感”だった。成田空港に着き、自宅に帰るために電車に乗った。そこで耳に入ってきたのは乗客たちの他愛のない会話。「言葉が全部分かる安心感がすごくて……。周りで話している人の会話を全部聞き取れて、すごく嬉しかった記憶があります」。英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語……。5か月間、ほとんど分からない言語に囲まれて過ごしてきた。言葉の重要性、コミュニケーションを取れる有難さ……。ずっと日本にいたら、感じることのできない感覚だった。
味わった海外特有の厳しさ「向こうの人たちはその1回にめちゃくちゃ賭けている」
日本に帰ってくることになったが、挑戦しなければ分からなかったことも数多くあった。「海外で活躍できる人は、ただサッカーが上手いだけじゃない。相当の準備とコミュニケーション、負けん気といった部分が本当にすごいんだなと思います。吉田麻也選手が英語で喋ったり、同級生で国体で一緒だった長谷部誠もドイツ語で喋っていた。相当努力してるんですけど、でも、あのクラスになると努力だと思っていない。それが当たり前。当時のダメだった自分を考えると、全然違うなと思います」。サッカーができれば、なんとかなると思っていた。もともとオファーがあったわけではなく、言葉が理解できなければ、通訳もいない。各クラブでお世話になった仲間やスタッフに満足に御礼も言えなかったことも後悔として残った。準備、言語の重要性を痛感した。
海外特有の厳しさも知った。「とにかく向こうは自己主張、負けん気がすごい」。練習中に行われるゲーム形式1つとっても、点を決めたり、勝てば全力で喜び、負ければゴールポストを蹴っ飛ばして思い切り悔しがる姿を目の当たりにした。「日本では決められようが、止められようが、あまり何の感情もなかった。でも、向こうの人たちはその1回にめちゃくちゃ賭けている。そこの違いはすごく感じました」。今までの自分の甘さを実感する日々だった。
「今でも、なんでやれなかったんだっていう悔しさは正直あります。ただ、その後、仙台に行けて人としても成長させていただいた。今となってはチャレンジしてよかったと思っています」。太田氏がこの経験をポジティブに捉えられるようになったのは、帰国後に加入したベガルタ仙台での日々が大きかった。半年ほど前まで所属していた磐田への復帰は叶わず。そこに手を差し伸べてくれたのが仙台だった。
「チームのためにっていう思いはあったんですけど、心と身体が一致しないというか、どこかで『自分何してるんだろうな』『こんなはずじゃなかったのに』みたいなところがあったのかもしれません」。帰国1年目のシーズンは、この5か月のブランクも響き、なかなか状態が上がらなかった。「僕が一気に変わったのは間違いなくそこです」と言うのは、在籍2年目の2011年3月11日に起きた東日本大震災だった。東北を襲った未曾有の大災害。仙台にいた太田も被災した。震災後にはチームメイトらと避難所などを回る中で、ハッとさせられる出来事があった。
太田氏を変えた仙台での日々「頑張る理由って、これだったんじゃないかなって」
「子どもたちがすごい元気に『一緒にサッカーをしようよ!』って言ってくれたり、家を津波で流されてしまったお婆さんが『東北のためにスポーツで頑張ってくださいね』って言ってくれたり……。本来なら自分たちが勇気づけたり、応援したりしなきゃ行けないのに、逆に応援してもらって……。その時に自分がここに来た意味ってこういうことか、ここで活躍できなかったら何しに仙台に来たのかわからない、という思いになりました。そこからです、僕が変われたのは」
自分が戦う意味、サッカーをする意味が見つかった気がした。震災後のJリーグ再開初戦・川崎フロンターレ戦で両足をつりながら魂のゴールを叩き込んだ。仙台でのホームゲームでもゴールを決めた。「仙台に来て頑張る理由って、これだったんじゃないかなっていうのをすごく感じていました。このチームで東北を勇気づけて、頑張っていかなきゃいけないっていう思いが一気に出ました」。仙台で輝きを取り戻すと、2015年には古巣の磐田に復帰。2019年シーズンを最後に現役を引退した。
当時は数えるほどしかいなかった海外組は、いまでは主要リーグ以外も含めれば、200人を超えるまでになった。太田氏のように移籍先のアテもないまま、欧州に飛び、入団テストを経て契約を勝ち取る選手も少なくない。「(いまの選手たちが)羨ましいのは羨ましいですけどね。自分もやりたかったな、という思いはあります」。笑みを浮かべながら、太田氏はこう続けた。
「当時はあんな最悪な思いはもう2度としたくないって思っていましたけど、今となっては最高の思い出です。それが最高の思い出だと言えるようになったのはベガルタがあったから。ベガルタに行けて、人としても成長させていただいたので、そういう意味でもチャレンジしてよかったと思っています」
現在はサッカー人生のほとんどの時間を過ごした静岡と宮城を中心に育成に力を注ぎ、子どもたちにサッカーの技術だけでなく、この経験も伝えている。「辞めていった選手が次世代の人たちに教えてあげる環境を作る、というのもすごく必要なことだと思っています」。いまだから胸を張って言える。苦しく、悔しく、そして情けなさすらも感じたあの5か月は、決して無駄じゃなかった、と。(次回に続く)
[プロフィール]
太田吉彰(おおた・よしあき)/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田ユース―磐田―仙台―磐田。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点。トップ下やFW、サイドハーフなど攻撃的なポジションをマルチにこなす鉄人として活躍した。2007年にはイビチャ・オシム監督が指揮する日本代表にも選出。2019年限りで現役を引退し、現在はサッカー指導者として子どもたちに自身の経験を伝える活動をしている。
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(福谷佑介 / Yusuke Fukutani)