練習は競馬場、携帯代は10万円超え 欧州での洗礼…決まらぬ移籍先に募ったイライラ【インタビュー】
太田氏にとって2クラブ目となった入団テストはドイツ3部のVfLオスナブリュック
いまや200人を超える日本人選手がプレーしている欧州に、15年前、果敢に挑んだ太田吉彰氏。ジュビロ磐田を退団して2009年7月、海外でのプレーを夢見て単身、海を渡った。激動の5か月間で受けられた入団テストは3クラブだけ。渡欧して3か月ほど経ったタイミングで届いた2クラブ目の入団テストのオファーは、ドイツのクラブからだった。(取材・文=福谷佑介)
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ヨーロッパに渡って、3か月近くなろうとしていたときだった。イギリスのプリマスにいた太田氏のもとに、ようやく2クラブ目となる入団テストの話が届いた。行き先はドイツ。ドルトムントから車で1時間半ほど北上したところにある街、オスナブリュックを本拠地にするドイツ3部クラブのVfLオスナブリュックからのオファーだった。
「プリマスにいる時も『こういうチームが興味を持っているから』っていう話はかなり来ていました。でも、結局、オファーはなし。代理人さん含め、日本人の方がめちゃくちゃ動いてくれて、そういう話は入ってくるけど、結局ダメでした、というのばかり。自分が悪いんですけど、『なんだよ!』ってイライラしかけているなか、ようやく話があったのがオスナブリュックでした」
この年のオスナブリュックは3部所属ながら、カップ戦でベスト16に進出。準々決勝で翌年に内田篤人が加入するシャルケ04に0-1で敗れたものの、リーグ戦で優勝し、翌年の2部昇格を手にした。太田氏が入団テストを受けたのはこのシーズンの真っ最中。「そこに入ることができて、活躍すれば、上のカテゴリーのチームにも見てもらえる、という話もしてもらっていました」。巡ってきた2度目のチャンス。高いモチベーションを胸にドイツへと渡った。
練習初日は確かな手応えがあった。「1日目はすごく活躍できたというか、いい動きができたなって正直思っていました。ただ、2日目あたりから一気に体が重くなって……」。実力的には戦える感触があった。ただ、プリマスで練習に参加していたとはいえ、異国の地で3か月近く試合もしていない。慣れない環境で精神的なストレスを抱え続けてもいた。状態もプレー内容も日に日に下降していった。
“まさか”の出来事もあった。太田氏の本職は右サイドだが、この時、オスナブリュック側が求めていたのは、実は左サイドの選手だった。テスト序盤、右サイドのポジションに就くと「『お前は左サイドの選手じゃないのか?』みたいな雰囲気が確かにあった」という。右サイドでプレーを続けたものの、満足いくプレーも出せず。「そこで気づけばよかったんですけど……。無理矢理にでも左サイドでやっておけばよかったな、とも思いましたね」。結果は不合格。再び入団テストのオファーを待つ日々に逆戻りとなった。
いつ入団テストのオファーがあるか分からないため、ホテルを転々して生活
オスナブリュックを離れた太田氏はル・マンFCで松井大輔の通訳だった人物に招かれ、再びフランスへ。今度はパリから北へ車で1時間ほどのところにある街、シャンティイで過ごすことになった。「いまだにすごく覚えていて、すごくのどかな、自分が生まれ育った環境に似たような街でした」。週に2、3回、フランス4部FCコンピエーニュの練習に参加。それ以外はシャンティイ競馬場の広場で1人で走ったり、ボールを蹴ったりして、懸命にコンディションを維持しようとしていた。
欧州滞在も4か月近くになり、徐々に金銭的にも苦しくなってきていた。いつ入団テストのオファーが届くか分からないため、ホテルを長期間押さえることができず。2、3泊してはインターネットで新たな宿泊先を予約し、大量の荷物を抱えて移動するの繰り返し。必然的に宿泊代は高額になり、日本との連絡で携帯電話の代金は月10万円を超えていた。それまでの貯金を切り崩して生活を続けていたが、それも日に日に減っていっていた。
練習量は決して十分ではなく、カロリーの高いヨーロッパの食事で体型にも変化が出てきていた。「どんどん、ブクブクと太っていってました。日本に帰った時には、行く前に比べて5キロくらい増えていましたから。ジュビロの時はガリガリだったんですよ。ただ、海外に行って、周りの選手がデカいから、自分も大きくしなきゃいけないって思って食べちゃったんですよね」。
実は、練習に参加していたFCコンピエーニュは周囲に「ウチでやる気はないか?」と打診をしていたという。いまでは欧州各国の3部や4部のクラブでプレーする日本人が当たり前になっているが、当時はそんな選手は稀。「その時、そういう考えはなかったんです。どれだけ苦しくても1部でやりたい、としか考えていなかったですね。いま思えば、むちゃくちゃもったいなかった。勘違いというか、思い上がりみたいなのがあったんでしょうね」。太田氏自身も当然、1部クラブでのプレーを目指しており、その打診が直接、太田氏の耳に入ることはなかった。
そうこうしているうちにシェンゲン協定による圏内滞在の期限が迫ってきていた。代理人からの指示もあって、フランスを離れて再びイギリスへ。ヨーロッパ滞在は4か月を過ぎ、なかなかチームが決まらず、ストレスも溜まってきていた。代理人や関係者とぶつかることも増えていた。そんな状況でロンドンに訪れたのは、4か月間、離れ離れで暮らしていた、結婚したばかりの妻だった。(次回に続く)
[プロフィール]
太田吉彰(おおた・よしあき)/1983年6月11日生まれ、静岡県出身。ジュビロ磐田ユース―磐田―仙台―磐田。J1通算310試合36得点、J2通算39試合4得点。トップ下やFW、サイドハーフなど攻撃的なポジションをマルチにこなす鉄人として活躍した。2007年にはイビチャ・オシム監督が指揮する日本代表にも選出。2019年限りで現役を引退し、現在はサッカー指導者として子どもたちに自身の経験を伝える活動をしている。
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