いまも脳裏に刻まれる華麗なプレー 鹿島の伝説…ジーコとレオナルドの運命的な結びつき【コラム】

サンパウロ時代に10番を背負ったレオナルド【写真:徳原隆元】
サンパウロ時代に10番を背負ったレオナルド【写真:徳原隆元】

ジーコの「引退30周年記念セレモニー」にゲストとして登場したのがレオナルドだった

 Jリーグ誕生時の「オリジナル10」である鹿島アントラーズを、常勝軍団へと導いた最大の功労者は、言うまでもなくジーコだ。選手、スタッフ、この組織にかかわるすべての人たちにプロフェッショナルとしてのあるべき姿を伝え、自らもプレーでチームを牽引し、日本を代表するサッカークラブへと成長させた。

 鹿島のホームスタジアムで行われたJ1リーグ第36節の試合前、現在もクラブアドバイザーとして鹿島との関係が続くジーコの「引退30周年記念セレモニー」が行われた。このセレモニーにゲストとして登場したのが、かつて鹿島に所属し、チームの創成期の中心選手として活躍したレオナルドだった。

 鋭い切れ味のドリブルでピッチを颯爽と走り抜け、精度の高いパスで攻撃陣をリードし、ゴールまでも決める。ブラジル人らしく抜群のボールテクニックを誇ったレオナルドは、その端正なルックスも相まって、サポーターたちから絶大な人気を誇った選手だ。

 ジーコが自らの後継者として鹿島への加入を勧め、それに応じて1994年8月に一員となったレオナルドは、同年の7月に行われたアメリカW杯で優勝を果たしたブラジル代表のメンバーでもあった。現役セレソンの肩書きを持つ選手の加入に、サポーターはおおいに活躍を期待し、レオナルドも華麗なプレーでその思いに応えた。

 こうして時が経ったいま、ジーコとレオナルドが歩んできたサッカー人生を振り返ってみると、2人にはさまざまな接点があり、運命的な結びつきを感じる。

ルックスも相まって、サポーターたちから絶大な人気を誇った【写真:徳原隆元】
ルックスも相まって、サポーターたちから絶大な人気を誇った【写真:徳原隆元】

 レオナルドはジーコと同じく、リオ・デ・ジャネイロ州最大の人気チームであるフラメンゴでプロのキャリアをスタートさせている。フラメンゴが築き上げた数々の栄光に携わったレジェンドであるジーコからの誘いなら、当時25歳とサッカー選手として坂道を駆け上がり、更なるレベルへの到達を目指せる時期であったにもかかわらず、レオナルドは黎明期にあった極東のプロリーグのチームに加わることに、躊躇いはなかったと語っている。

 レオナルドがサッカー選手として大きく成長する転機となったのは、93年に所属していたサンパウロFCのときと言えるだろう。このときに“白い巨人”サンパウロFCの指揮を執っていたのは名将テレ・サンターナだった。82年のスペインW杯でブラジルを指揮し、センターバック(CB)の2人以外はポジションに捉わることなく自在にプレーする、超攻撃的で芸術性に富んだチームを作り上げた人物だ。結果は2次リーグ敗退に終わったが、セレソンの歴史にあって屈指の華麗さ、と高く評価されている。このチームの中心的選手は他でもないジーコだった。

 指導者としてテレ・サンターナのもっとも優れていた点は、選手の特徴を的確に見抜き、チーム状況において独自の起用法を展開する決断力にあった。テレ・サンターナはレオナルドの秘めた才能を感じ取り、元々は左サイドバックの選手であった彼を、よりチームの中心的役割をこなす、攻撃的ミッドフィルダーとして起用する。知略に富んだ老練な指揮官によって、レオナルドは10番の選手となり、鹿島でジーコの代名詞であったエースナンバーを受け継ぎ、華麗なプレーで観客を沸かせていった。

パナマ戦で10番をつけたレオナルド【写真:徳原隆元】
パナマ戦で10番をつけたレオナルド【写真:徳原隆元】

ジーコとレオナルドは鹿島とセレソンでともにエースナンバーを背負ってプレーした

 レオナルドは鹿島でのプレーを経て、活躍の場をヨーロッパの強豪クラブであるパリ・サンジェルマン、そしてACミランへと移す。彼はキャリアの最後を鹿島で迎えたいと言っていたが、その言葉は現実とはならなかった。一線を退くように2001年にヨーロッパをあとにすると、次に選んだプレーの場所は日本ではなく母国のブラジルだった。
 
 そして、ブラジルに戻ったレオナルドに、思いがけない幸運が舞い込む。約2年ぶりに代表へと招集されたのだった。当時のブラジルは02年日韓W杯に向けて南米予選を戦っていた。本大会では頂点へと昇り詰めるセレソンだが、予選ではかつてない大苦戦を強いられていた。

 レオナルドは2001年8月15日のパラグアイ代表戦のメンバーとして招集される。上昇気流に乗れず、初の予選敗退がチラつく厳しい状況を受けて、ブラジルはチームに勢いをつけるために、急遽、同9日にパナマ代表との親善試合を組む。そして、実戦形式の力試しとなったこのパナマ戦でレオナルドはキャプテンマークを巻いて先発出場を果たしたのだった。

 その背番号は「10」。かつてジーコが背負い、自身も全盛期につけていたカナリアの栄光の番号を託され、5-0の大勝に貢献する。だか、大一番となった15日の試合(結果は2-0でブラジルの勝利)では途中出場に留まり、背番号も「15」だった。続く9月5日に行われたアウェーのアルゼンチン代表戦にもメンバー入りを果たしたが、出場する機会がなく、1-2で敗戦。レオナルドがカナリア色のユニホームに袖を通すことは、これ以降はない。

 現役引退後のレオナルドは、ヨーロッパで監督やチームのフロントを経験していく。彼がパリ・サンジェルマンでスポーツディレクターを務めていたときの試合に行くと、キックオフ前にピッチの周囲にいたレオナルドは、こちらを日本人だと認識すると、手を振ってきたこともある。日本とのかかわりを大切にしているエピソードと言えるのではないだろうか。

 鹿島とセレソンで、ともにエースナンバーを背負ってプレーしたジーコとレオナルド。鹿島サポーターが2人の日本でのプレーを見たのは、ライブでの体験や映像メディアの視聴と形はさまざまだろう。だが、ジーコとレオナルドの華麗なプレーは時代を経ても色褪せることなく、サポーターたちの心のなかに、いつまでも鮮明に刻まれていくことだろう。

(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)

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徳原隆元

とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。

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