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“カズの日”にはさせない 読書感想文にも書いた憧れ…元日本代表FWの闘志「勝つしかない」
クリアソン新宿の北嶋監督が11月11日の国立対戦へ思いを語る
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“キタジ”が“カズ”との対戦を楽しみにした。11月9日に日本フットボールリーグ(JFL)所属のクリアソン新宿の元日本代表FW北嶋秀朗監督(46歳)が、11日に国立競技場で行われるアトレチコ鈴鹿戦を前にFWカズ(三浦知良/57歳)への思いを口にした。少年時代から憧れてきたスーパースターとの対戦。JFL残留に向けて負けられない試合に闘志を燃やした。
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最初の出会いは、かつての国立競技場だった。1986年、キリン杯に出場したパルメイラス(ブラジル1部)にカズがいた。「日本人がブラジルのチームにいるなんて、すごいなと思いました」。カズは90年に帰国して読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)入り。驚きは憧れに変わった。
「中3の時の読書感想文を、カズさんの本(『KAZU-十五の旅立ち、三浦知良物語』)で書いたんです」。課題とされていた本ではなく、カズの本を選んだ。本場でプロを目指すために海を渡り、苦労の末に成功した話に感動した。「僕もカズさんのようになりたい、って書きました」と振り返った。
船橋市立船橋高校時代は1年と3年の2度、国立競技場で高校選手権優勝を果たした。憧れで目標だったカズは柏レイソル入りでライバルとなり、2000年には日本代表でチームメイトにもなった。
最後の対戦はロアッソ熊本時代の2013年11月。シーズン終了後の引退を発表した後の横浜FC戦で、ユニホームを交換した。「最後だったから、欲しいと思って」。引退後は指導者となり、S級ライセンスも取得。昨年クリアソン新宿のコーチとなり、今年監督になった。「自分が監督で、カズさんは選手。不思議な感じですね」と笑った。
57歳で現役を続けるカズを「サッカーへの情熱、魂がすごい」と話す。「愛情は持ち続けても、年齢を重ねるにつれて選手から監督や裏方へと姿、形は変わっていくもの。カズさんは、ずっとプレーヤーとしての情熱を持ち続けている。それが、すごい」。そのための節制、努力が分かるからこその言葉だ。
もちろん、監督として勝利は譲れない。昨年J3ライセンスを取得したチームは今季Jリーグ入りを目指したが、開幕からつまづいて前節まで勝ち点22の16位。ソニー仙台の今季限りの退会で地域リーグへの自動降格はなくなったが、最下位18位になれば入れ替え戦に臨まなければならない。残り3試合、残留へ「すごく大事な試合」と語気を強める。
勝利のために、カズにも警戒する。公式戦で2年間ゴールがないとはいえ「シンプルに、こういう時に点を取る。そういう星のもとに生まれている人だと思う」。カズの国立競技場への思いの強さも知っている。「そういうのは、必ずプレーに乗っかってくる」と話す。鈴鹿でのプレーをビデオで見て「肝は抑えている。ゴール前の嗅覚、いるべきところにいる」と警戒。「センターバックは、しっかりと捕まえておかないと」と勝ち点3獲得を目指して言った。
6月に国立競技場で行われたFCティアモ枚方戦は1-4と完敗。「選手たちには国立を意識しないように言ってきたが、逆に意識して思うようなプレーができなかった。今回は国立を意識させてきている。もう緊張はしないと思う」と北嶋監督は試合を楽しみに話した。
6月の国立は1万6480人を集め、22年にカズの鈴鹿ポイントゲッターズ戦で記録した1万6218人を更新するJFL最多観客記録を作った。今回はチケット販売も好調で、再び記録を塗り替える可能性もある。「多くの人にクリアソン新宿を見てもらえるのは嬉しい」という。
カズの鈴鹿入りで急遽変更した国立競技場開催。当初予定していた10日はイベントが入っていたため、平日11日の開催になった。偶然にもカズの代名詞でもある「11」が並んだが「カズの日」にするつもりはない。「サポーターに豊かさや感動を与えたい。そのためには勝つしかない」。少年時代からの憧れ、目標でもあったカズを迎えて、北嶋監督の勝利への意欲はより強くなる。
(荻島弘一/ Hirokazu Ogishima)
荻島弘一
おぎしま・ひろかず/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。