小野伸二らに脅迫電話「出ていくなよ」 J2降格で社長に直談判…”有言実行”で果たした約束【コラム】

野人・岡野雅行の男気ストーリーを回想【写真:産経新聞社】
野人・岡野雅行の男気ストーリーを回想【写真:産経新聞社】

1999年にJ2降格した浦和、岡野雅行が宣言「みんな残りますから大丈夫です」

 1993年に開幕したJリーグは勝敗や順位の決め方、勝ち点の算出法など日本独自の手法で運用してきた。現在の方式は2008年からで、それまでの変遷ぶりを詳細に記憶している人などいないのでは、と思われるほどの頻度で変化した。

 90分で勝負が決まらなければVゴール方式の延長戦に入り、それでも決着しない時はPK戦を行ったが、1999年からはPK戦を廃止し、引き分けが導入された。現行の90分制に移行したのが2003年からだ。

 1993、94年は勝利数の多いチームを上位とし、1995年から勝ち点制が採用されたのだが、これもシーズンによってポイント数が違った。90分勝ちが3で、Vゴールだと勝っても2。PK戦勝利が1で、何とPK戦で負けても1を獲得できた時期もある。

 Jリーグは1999年に2部を新設。J1下位2チーム、J2上位2チームが翌年、自動的に入れ替わる大きな節目を迎えたシーズンだった。

 1998年の浦和レッズは、3人目の日本人指揮官となった原博実監督が就任。静岡・清水商高の天才MF小野伸二の加入も大きく、第2ステージで3位に躍進した。原監督は「タイトルに近づくための土台ができたと思う。来季はさらに高度な戦術と組織づくりを進めていきたい」と意欲を示し、2年目のシーズンを待ちわびたものだ。

 ところが一転、1999年は前年の勢力が途端に衰え、意気地のない戦いが続く。第1ステージは3勝4分け8敗と失速し、16チーム中13位に沈んだ。名古屋との最終戦ではチーム最多の8点を失った上、呂比須ワグナーには中山雅史ら4人が保持するJ1の1試合個人最多記録となる5点を奪われるお粗末ぶりだ。

 この3週間後には成績不振により原監督が解任され、7月にオランダ人のア・デモス監督を招請して第2ステージでの巻き返しを狙った。リーグ2番目に多い33失点の守備を整備するため、6月に中村忠と路木龍次の元日本代表DFを期限付きで呼んでいる。

 第2ステージ開幕1か月前に小野が全治3か月の重傷を負い、泣きっ面にハチの状態で後半戦もいばらの道が続く。第2ステージも13位から最下位を迷走し、残留ラインぎりぎりの年間14位でサンフレッチェ広島との最終戦を迎えた。

 最下位ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)のJ2降格は既に決まっており、残る1チームは年間13位のアビスパ福岡、同14位の浦和、同15位のジェフユナイテッド市原のいずれかだった。

 浦和は90分で勝てば、総勝ち点29で福岡と市原の勝敗に関係なく年間13位。青息吐息の残留となる。11月27日の浦和駒場スタジアムには、この年最多の2万42人の観衆が集まり、浦和のサポーターは祈るような思いで試合を見守った。

 浦和の絶好の得点機は前半11分のベギリスタイン、後半19分と40分に盛田剛平、29分の小野が放った4本だけだが、どれも決めねばならぬビッグチャンスだった。当時の交代枠は3人。絶好調だったエースの福田正博が出てきたのは、後半36分からの3番手だ。

 両者決定力を欠いて0-0で90分を終了。市原の勝利、福岡の敗戦が伝わる。延長で勝っても両チームと年間勝ち点28で並び得失点差で及ばない。J2降格を知り、徒労だけの延長戦に入った。悲劇を承知した観客の応援がさらに熱を帯びていた後半1分、皮肉にも90分のうち持ち時間の一番少なかった福田がVゴールを蹴り込んだ。勝ってもむなしい決勝点である。

 ファン、サポーターはたそがれながらも『ウイ ア~ レッズ』(私たちの浦和だ)の大合唱をいつまでも続け、J2だろうが一心同体で応援するというメッセージを伝えた。この年の1月から6月まで、アヤックス(オランダ)の練習に参加していた岡野雅行はベンチ外だったが、試合後は場内を一周して観客にあいさつとわびを入れた。

 その時だ。『岡野、来年は頼むぞ』『お前の力でJ1に戻してくれよ』といった無数の激励が届いた。取材場に現れた岡野は「僕たちが降格させてしまったのだから、僕たちの力で必ず1年でJ1へ戻ってきます。みんな残りますから大丈夫です」と驚きの言葉を発したのだ。

 しかし岐路に就く車中で岡野はふと思った。「待てよ、みんな移籍するって言ってたな。こりゃやばい」と顔を青くした後、山田暢久や小野伸二、永井雄一郎といった若手の主力を中心に電話をかけまくった。

「お前らが落としたんだから、出ていくなよ。お前らがいなくなったら勝てないからな」

 山田は「岡野さん、半分脅しみたいに説得工作してきたんですよね。焦っていたみたい」と苦笑しながら述懐し、「自分は岡野さんに言われなかったら、移籍するつもりだったんですよ」と付け加えた。

 小野にしても永井にしても、才気煥発な若手数人に他チームから獲得の申し出があった。1995、96年の浦和を指揮したホルガー・オジェック監督が広島戦を観戦。試合後「小野は多くのクラブから申し出があり、チームにとどめておくのは難しいのではないか」と心配そうに話した。

 あまり知られていない裏話だが、当の岡野にも名古屋グランパスから好条件でのオファーが届いていたのだ。「あと1年くらいで引退というストイコビッチが、最後は僕と一緒にプレーして僕にパスを出したい、という希望を名古屋のフロントに伝えたそうです」と打ち明けた。

 だが、岡野は場内で聞いたファン、サポーターのあの願い、あの叫びが胸に刺さった。「裏切れないな」。

 岡野の行動は後輩への電話工作だけにとどまらず、クラブの中川繁社長に「選手全員の給料を上げてください。そうしないとみんな移籍しちゃいますから、お願いします」とひとりで直談判したのだ。「移籍を決めていた選手もいるし、せめてそうしないとみんなの人生を狂わせちゃいますからね」と言うのだから、何ともすさまじい男気を見せた。

 かくして岡野が説得した主力は全員がチームに残り、翌年J2で2位となって公約通り1年での復帰を果たした。岡野さんの功績が大きかったですね? と振ると「いや、サポーターの勇気のほうがずっと大きかった」ときっぱり言い放った。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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