同期たちに「嫉妬していた」 無名からクラブの伝説へ…青山敏弘の運命を変えた出会い【コラム】
広島・青山敏弘の運命を変えたミハイロ・ペトロヴィッチ監督との出会い
2006年春、青山敏弘の名前を口にする広島の人は、ほとんどいなかった。
開幕からリーグ戦8試合を消化した段階で3分5敗、カップ戦を含めた公式戦11試合勝利なし。4月16日のジュビロ磐田戦で敗北した直後、小野剛監督の退任が決定し、望月一頼GKコーチがワールドカップ中断までの4試合限定で監督に就任するという非常事態の中で、加入3年目でリーグ戦出場試合ゼロの若者を気に掛ける余裕はない。
前年、左膝前十字靱帯断裂の大怪我でシーズンを棒に振った青山にしてみれば、2006年は勝負の年。もしここで結果が出せなければ、よくてJ2チームへの期限付き移籍。「契約満了」という事態も十分に予測できた。だが、小野、望月両監督とも、彼を使う気配すらなかった。無理もない。勝利という結果をたぐり寄せるならば、未知数の若手よりも計算できるベテラン。特に「守備からチームを立て直す」指針を打ち出した望月監督が就任して以降、攻撃的な青山はベンチにも入れなくなった。
望月監督の4試合は2勝1分1敗。勝ち点7の積み上げは、それまでの8試合で積み上げたのが勝ち点3だったことを考えれば、まさにV字回復だった。
「このまま、望月監督でいいじゃないか」。フロントの多くは、そんな意見に傾いた。当然の意見である。だが織田秀和強化部長(現熊本GM)の考えは、望月監督はあくまで「繋ぎ」。彼が表現した守備重視のサッカー(後に望月監督は広島ユースで優美なパスサッカーを展開する)は、あくまでも非常事態がゆえのもの。
「広島はあくまで主体性を持った攻撃サッカーであるべきだ」
そんな信念のもと、新監督招請に心を砕く。そしてリストアップしたのが、千葉で革命を起こしていた名将、イビチャ・オシム監督の愛弟子であるミハイロ・ペトロヴィッチ。他クラブと契約していた彼を招請するには、決して安くない違約金を支払う必要があったのだが、久保允誉社長(現会長)は「彼でいけ」と指示した。日本では無名で、仔細な情報もなかった彼を次期監督に推薦した織田部長の眼と覚悟を、信頼したのである。
この決断こそ、青山敏弘の運命を変えた。
「誰からも期待されていない」。それが広島での彼の実感だった。「広島の期待株は?」という質問に、多くの人々が答えるのが髙萩洋次郎や高柳一誠、前田俊介ら広島ユース卒の若者たちだった。ユース勢以外では青山の同期である吉弘充志の名前も挙がっていたが、彼は広島出身であり年代別代表の常連。青山とは評価が違っていた。「嫉妬していた」と彼は言う。だが、その嫉妬心をエネルギーに変える術を、青山敏弘という男は知っていた。
「チャンスだ」…新外国人監督の就任とともに開けた視界
前十字靱帯断裂からの復帰を目指している時、リハビリと同時に自ら工夫して筋トレのメニューを組み、徹底して自身の身体を磨き上げた。当時、「筋肉をつけすぎると身体のキレがなくなる」と言われていた時代である。実際、広島ではまだ居残りで筋トレをやっていた選手がほとんどいなかった。だが、青山はそこに自分を賭けた。サッカーができない状況なら、身体を鍛えるしかないと、情熱を傾けた。
以前は「もやし」と揶揄されていた彼の肉体は、鋼に変わった。「お前、凄いな」。先輩がそう言ってくれることが、嬉しかった。
「何も見てくれないことほど、きついものはない。でも、筋トレを徹底して身体を作ったことで、先輩方が驚いてくれることが嬉しくて、またトレーニングに励んだ。そうやって作った身体が、自分の土台になったんです」
ペトロヴィッチがやってきた時、青山は「チャンスだ」と思った。新監督になれば選手の評価はリセット。特にペトロヴィッチ監督は当時、広島の選手たちのことはビデオで見ただけで、詳しくはまだ何も知らない。「この好機にすがるしかない」。それは青山だけでなく、試合に出ていなかった多くの選手たちの認識だった。
トレーニングは甘くなかった。ほぼ1日おきにトレーニングマッチが2試合組まれ、全員がほぼ90分間のプレーを課せられた。タッチライン際に新監督はずっと立ち、選手たちに対して激しい言葉で叱咤激励を飛ばす。試合がない日のトレーニングは約2時間ずつの2部練習でほぼ実戦形式。少しでも気を抜いたプレーを見せると厳しい叱責が飛ぶ。6月~7月、酷暑が日本を覆うなか、ペトロヴィッチ監督のトレーニングは壮絶を極めた。シャツを絞ると滝のように汗がドッと流れ落ち「肺が火傷をしたような感覚に襲われた」と青山が言うほどだった。
ペトロヴィッチ監督のトレーニングは肉体だけを鍛えたのではない。「常に3つ以上の選択肢を持て」が口癖。青山が何げなくクサビを入れた瞬間、新監督はトレーニングを止め「アオ、決して悪い選択ではないが、右サイドが空いているのは見えていたか。ヒサ(佐藤寿人)が裏を狙って飛び出したが、そこは見えていたか。見えていて、あえてクサビを選択したのならいいが、それなら少しタイミングをずらして蹴るという選択肢もあるぞ」と語りかける。アイデアを押しつけることはないが、「頭をフル回転してサッカーをするんだ」というコンセプトを徹底的に叩き込んだ。
伝説のスーパーショットに指揮官も「大スターになったな」
ある日のトレーニングで佐藤寿人が青山にこう言った。「トシ、ちょっとパスを出すタイミングが早すぎた」。だが、この時、ペトロヴィッチ監督はこう言った。「ヒサ、アオのタイミングでパスを受けてやってくれ」。青山の心が揺れた。自分のプレーが認められた。初めてそう感じた瞬間だった。「アオの素晴らしい可能性は、練習を見ただけですぐに分かった」とペトロヴィッチ監督はそう言った。
「ただ、当時の彼には自信がなかった。常に、何かを怖れていた。だから私は、彼の心を解放してやりたいと思っていたんだよ」
7月19日、瑞穂陸上競技場で行われた名古屋グランパス戦で彼はリーグ戦初出場初先発。3-2で勝利したあと、戸田和幸が「今日はアオに聞いてやってください」と笑顔で促した。決して、パーフェクトなプレーができたわけでもない。だが、チームの浮沈をかけたペトロヴィッチ体制の初戦で先発し、しっかりと戦い抜いたことは紛れもない。この試合以降、指揮官は青山をレギュラーとして重用した。
8月23日のアウェーガンバ大阪戦、北京五輪を目指すU-22日本代表招集の影響で3試合ぶりの先発となったこの試合で彼は決定的なパスミスを犯し、3失点目を献上。彼の交代後、広島は2点を返したが、及ばなかった。
「俺のせいで負けた」。消沈する若者に戸田主将が声をかける。「アオ、メシを食いに行くぞ」。試合のことは何も言わず、冗談を言いながら食事の場を盛り上げるキャプテンの姿に、陰鬱になっていた青山の気持ちは少しずつ晴れた。
「自分にも他人にも厳しい戸田さんが、優しく接してくれた。それはきっと、自分を認めてくれていたから」
ボランチとして目標にしていた選手の温かさに救われた青山の様子を見て、指揮官は中2日での鹿島アントラーズ戦に彼を先発させる決意を固める。後半4分、約35メートルの距離。青山は迷いなく右足を振った。ボールの芯を射抜いたミドルショットは名GK曽ヶ端準の頭上を超えてググッと落ちる。
パサッ。ゴールネットが揺れる音が響く直前にはもう、若者は両手を広げた。「自分が1番驚いた」というスーパーショットが青山敏弘のリーグ戦初得点。2002年の全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝での「幻のゴール事件」の当事者であったことも手伝い、試合後には記者たちが大挙して彼を囲み、コメントを欲した。
「アオ、大スターになったな」。そう言って笑ったペトロヴィッチ監督を見て、若者は言う。「ああいう監督の表情が見たかったんです」。
18年前、青山敏弘とサンフレッチェ広島に起きたさまざまなドラマ。これこそ伝説の始まりであり、すべての原点なのである。