「ずっと甘えていた」 なでしこ主将指名、無敗マンC守護神が決意を固めた監督代行の一言【コラム】
佐々木監督代行はGK山下をキャプテンに指名
誰がキャプテンになるのだろう。韓国女子代表との国際親善試合へ向けて自問自答を繰り返すたびに、なでしこジャパンの守護神、山下杏也加の脳裏には自分以外の顔ぶれが浮かんでは消えていた。
「(熊谷)紗希さんか(南)萌華か、あるいは(長野)風花かな、という感じで。(清水)梨紗がいたら梨紗だったかも、と……」
2017年から務める34歳のDF熊谷紗希に再び託されるのか。所属するASローマでも熊谷とセンターバック(CB)コンビを組む25歳の南萌華か、あるいは「10番」を背負う25歳のMF長野風花か。怪我で長期離脱を強いられていなければ28歳のDF清水梨紗だったかもと、山下はまるで人ごとのように考えていた。
しかし、26日に国立競技場で行われた韓国戦で、先発する11人の先頭で、つまりキャプテンとして入場してきたのは山下だった。苦笑いとともに「本当にまさか、まさかという感じでした」と振り返った、文字通りの青天の霹靂を経験したのは韓国戦前日の25日。公式練習を控えたウォーミングアップエリアだった。
「キャプテンにしようと思っている」
韓国戦限定で監督代行を務める、日本サッカー協会(JFA)女子委員会の佐々木則夫委員長に呼ばれ、かけられた言葉に思わず耳を疑い、そして動揺してしまったのか。山下はこんな言葉を返している。
「英語、しゃべれないんですけど」
外国人の審判団と、キャプテンは英語でコミュニケーションを取る場面がある。その場合、英語を不得手とする自分には向いていない、と遠慮しかけた山下に、佐々木監督代行はさらにこんな言葉をかけた。
「そんなのは関係ない」
この瞬間、山下は覚悟を決めた。感謝の言葉とともに、大役を引き受けると指揮官に告げた。なぜ「ありがとうございます」と添えたのか。それは佐々木監督代行のこんな思いが、山下に伝わっていたからだ。
「彼女はこれまで主軸のキーパーとして、いろいろな経験をしてきました。そこへキャプテンという精神的な重責もプラスアルファさせたなかでプレーさせれば、彼女がもう1つステップアップするきかっけにもなる。後ろでしっかりと試合をコントロールする彼女が、言葉でも表現できる経験も積ませたいと思っていました」
もっとも、肝心の言葉を発するべき場面で、山下は周囲を爆笑させた。韓国戦のキックオフを直前に控えた、全員で組む円陣。言葉に詰まった山下は「紗希さん、お願いします」と熊谷に振ってしまったのだ。
驚いた前キャプテンから「ここはヤマでしょう」と投げ返された山下は、何とか思いをまとめた。
「キャプテンとして伝えなきゃいけない言葉が、自分のなかで全然準備できていなかったんですけど、何とかつなぎました。自分のなかでキャプテンを務めた記憶が、小学生のころ以来だったのでそれをまず話して、最後は『勝って夢フィールドに帰ろう』と伝えました。ただ、最後は反応がちょっと薄かったんですけど」
韓国戦へ向けて事前合宿を積んできた、千葉市内の高円宮記念JFA夢フィールドが「みんなのモチベーションにはならなかったですね」と苦笑した山下は、守護神としての仕事を零封という結果を添えて完遂した。ただ、試合後には画竜点睛を欠いたとばかりに、3点リードで迎えた後半開始2分のセーブへの反省を忘れなかった。
自陣のペナルティーエリア付近で、南が熊谷への横パスを送るも球足が弱い。韓国のFWイ・ウンヨンにカットされ、すかさずゴール中央でフリーになっていたFWチェ・ユジョンへパスをつながれる。そのまま左足を振り抜いたユジョンの前へ、後半から出場したボランチの谷川萌々子がブロックに飛び込んだ直後だった。
谷川の左足をかすめ、コースを山なりに変えた一撃がゴールの左隅へゆっくりと吸い込まれていく。体勢を必死に立て直した山下は、懸命にダイブしながら両手によるセーブでゴールを阻止した。しかし、こぼれ球を敵味方のフィールドプレイヤーが争い、結果的に韓国のコーナーキック(CK)になった展開を悔やんだ。
「相手のシュートが味方にちょっと当たって、タイミングがずれたんですけど、ボールがそれほど強くなかったので対応できました。ただ、キャッチするか弾くかで、ちょっと迷ってしまって」
シティ移籍のチャレンジ、苦労するコミュニケーション
日テレ・ベレーザ(現日テレ・東京ヴェルディベレーザ)に所属していた2015年8月に、韓国との東アジアカップ(現EAFF E-1サッカー選手権)でなでしこジャパンでのデビューを果たしてから、最終的には4-0で圧勝した今回の韓国戦が76試合目の出場になる。その間、2019年と2023年のFIFA女子ワールドカップ(W杯)、五輪では2021年の東京大会と今夏のパリ大会で、日本のゴールマウスを守ってきた。
特にパリ五輪では「無所属」の肩書きで出場した。INAC神戸レオネッサに移籍した2021-22シーズン。新たに創設されたWEリーグの初代最優秀選手賞(MVP)に選出されている山下は、海外移籍へ向けた準備のために6月に退団。パリ五輪後の8月9日に、マンチェスター・シティと3年契約を結んだ。
「自分にとって新しいチャレンジだし、こういう経験をしたことがなかったので、移籍から最初の1か月が過ぎるのがものすごく長く感じられたというか、濃かったイメージがいまでもあります」
笑顔で振り返った山下は、イングランド女子スーパーリーグの強豪で、リーグ戦の全5試合で先発を勝ち取り、チームを4勝1分と無敗の首位に導く活躍ぶりを手土産になでしこジャパンへ合流した。
もっとも、新天地での日々は決して順風満帆ではなかった。先述したように、英語を不得手としている山下は、それだけで最終ラインとの密なコミュニケーションが求められるキーパーとしてハンデを背負う。週に2度の英会話レッスンを欠かせないと明かした山下は、こんな言葉をつけ加えるのを忘れなかった。
「それでも、味方とのコミュニケーションというのはほとんどできていないんですよ。文法が全然ダメなので、もうほとんど簡単な単語だけで、という感じです。英会話、もっと頑張らないとダメですね」
悪戦苦闘しながらも守護神の座を譲らなかった軌跡が、山下の自信をさらに膨らませた。そこへ代表チームでキャプテンを務めた経験が、特に心の部分でさらなる成長を促す。山下はこんな言葉も残している。
「自分がキャプテンでいいのかな、と最初に思ったのと同時に、いままでの自分は(熊谷)紗希さんという存在にずっと甘えていた。これからはそれを自覚しなきゃいけない、というのは確認できたと思っています」
年内にも決まる予定の新監督の意向次第では、大役拝命は最初で最後になるかもしれない。誰よりも山下自身が「一度きりかな」と苦笑する。それでも身体能力の高さを生かしたセービングと、足元の正確な技術でビルドアップにも加わる守護神が、メンタル面でもターニングポイントを迎えたとすれば――。29歳になった直後に迎えた韓国戦は山下個人にとっても、そしてなでしこジャパンにとっても大きな財産となる。
(藤江直人 / Fujie Naoto)
藤江直人
ふじえ・なおと/1964年、東京都渋谷区生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後に産経新聞社に入社。サンケイスポーツでJリーグ発足前後のサッカー、バルセロナ及びアトランタ両夏季五輪特派員、米ニューヨーク駐在員、角川書店と共同編集で出版されたスポーツ雑誌「Sports Yeah!」編集部勤務などを経て07年からフリーに転身。サッカーを中心に幅広くスポーツの取材を行っている。サッカーのワールドカップは22年のカタール大会を含めて4大会を取材した。